坂東眞砂子 葛橋 目 次  一本樒 いっぽんしきみ  恵比須 えびす  葛橋 かずらばし  一本樒《いっぽんしきみ》     一  一本樒《いつぽんしきみ》が揺れている。  台所の窓辺に置かれたコップの中で、隙間風《すきまかぜ》に吹かれて小さく身を震わせている。  天に向かって指を広げる葉は濃い緑。電灯に照らされてつやつやと輝き、仄《ほの》かな芳香を撒《ま》きちらす。甘いその匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、私は今日も流しに立つ。洗い桶《おけ》に入れた食器をスポンジでこする。茶碗《ちやわん》が心地よさそうな声をあげる。藍色《あいいろ》の麦藁手《むぎわらで》の模様が白い泡に包まれていく。  暗い曇り硝子《ガラス》の窓の外はもう秋だ。冷たい風が山の木々を掻《か》き乱す。森が地鳴りのような音をたてて騒いでいる。今夜は風が強い。せっかく熟した木の実が落ちなければいいのだけど……。 「なに、抜かすんや、この女《あま》っ」  突然、響いた怒声に手が震え、夫の茶碗が洗い桶に滑り落ちた。水《みず》飛沫《しぶき》が顔に飛び、私は現実に引き戻された。  背後の茶の間を振り向くと、僅《わず》かに開いた障子の奥に沈黙が張りつめている。  話し合いがこじれたのだろうか。不安が胸に湧《わ》いた時、夫の声が聞こえた。 「まあまあ、坂上さん。そんなにかっかしはったら、話もでけしまへんやろ」  そのおっとりした口調に、私は肩の力を抜く。 「お義兄さんのいわはる通りや。あんたがそんなに短気やさかい、私も家を出るしかなかってんで」  妹の菜穂が口を挟み、坂上の舌打ちが続いた。  私は前掛けで手を拭《ふ》いて、障子の間からそっと隣室を覗《のぞ》きこんだ。  六畳の和室に置かれた炬燵《こたつ》を囲んで、三人の人間が座っていた。縁側を背にして、あぐらをかいているのは坂上勇だ。青ざめた顔で片目をぴくぴくと震わせ、向かいに座る妹を睨《にら》みつけている。菜穂は炬燵|蒲団《ぶとん》の上に膝小僧《ひざこぞう》を出して、横座りをしていた。細い体のわりにはぼってりと肉のついた尻《しり》の線が、桃色のニツトワンピースの下で浮きたっている。そんな二人の様子を見守りながら、トレーナー姿の夫の浩一郎が筋肉質の体を前後に揺らしていた。  炬燵の上には、食後のために用意した湯飲み茶碗と羊羹《ようかん》を入れた菓子盆が置かれている。それが、この緊張した部屋の空気とはいかにもちぐはぐだ。  坂上が、茶色の革のジャンパーのポケットからきれいな水色の箱を取りだした。普通の煙草の箱よりもひとまわり大きく、外国の煙草らしい。一本、抜きだすと、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて銀のライターで火をつけた。パーマをかけた髪が額にかかり、彫りの深い顔に影が落ちた。  この男は危険だ。  最初に坂上を見た時、感じたことが、再び頭に閃《ひらめ》いた。  ——お姉ちゃん、私の今度の彼、見たってや。  そう菜穂にいわれたのは、一年前のこと。気乗り薄な私を、妹は強引に大阪のミナミにあるしゃれたバーに連れていった。坂上は、そこでバーテンとして働いていた。俳優にでもなれそうな端整な顔をしているために、彼を目当てに来る女性客も多いのだと、菜穂は自慢たらしく告げた。しかし私は、一目見た時から坂上が気に食わなかった。吸いこまれそうな黒い瞳《ひとみ》の奥で、こすからい色が見え隠れしていた。  あんまし勧めへんなぁ、と呟《つぶや》いた私を、妹は怒って見返した。  ——やっぱしお姉ちゃんも、お父さんやお母さんと一緒やな。私の選んだ人に反対しかせえへん。  やがて菜穂は坂上との同棲《どうせい》をはじめたが、長い間、電話のひとつもよこさなかった。私たちは、たまに葉書で短い音信を伝え合うだけになってしまった。それが三日前、バッグ一個持って、菜穂が突然、この家に転がりこんできた。坂上に殴られたらしく、顔が腫《は》れあがっていた。  ——もう、あかん。あんな人、もう辛抱でけへん。私、別れたる。  泣きながらぶちまける妹を、やっとあの男と別れる気になったかと、私は喜んで迎え入れた。しかし、まさか坂上が菜穂の残した葉書を頼りに、この家にまで押しかけてくるとは思いもよらなかった。  夕食を終えて膳《ぜん》も片づけ、お茶の用意をしていた時、「菜穂ーっ、菜穂はおるかぁっ」と、いきなり坂上が縁側から家に上がりこんできた。そして妹を見つけると、無理やり連れだそうとした。夫が仲に入って話し合いをはじめたからよかったようなものの、放っておいたら何をしでかすかわからない剣幕だった。  だから坂上はやめろ、といったのに。  障子の陰に隠れたまま、私は心の内で妹をなじった。  坂上は自分を落ち着かせようとするようにしきりに白い煙を吐きだすと、菜穂に向かって顎《あご》をしゃくりあげた。 「ほな、ゆうてみぃ。俺のどこが嫌なんや」  菜穂はマニキュアをした指で長い髪をいじりながら、つっけんどんに答えた。 「どこもかもや。私の稼いだ金も、人から借りた金も、皆、マージャンや競馬に使いまわってからに。この頃は、サラ金からも借りてるやろ。家におったら借金の催促の電話ばっかりで、気が変になりそうや。もう、あんたなんかこりごりや」  坂上は煙草を、夫の湯飲み茶碗に放りなげた。煙草は灰色の煙をくゆらせて、茶の中に沈んだ。 「おまえが新しい服が欲しいだの、旅行に行きたいだのせっつくさかい、なんとか金を作る算段をしてんやないか」 「やくざから借金してまで、金作ってくれとはゆうてへんわ」  坂上はあからさまに顔を歪《ゆが》めた。 「ほな俺《おれ》が賭事《かけごと》もやめて、真面目《まじめ》に仕事だけするようになったら、ええゆうんか」  菜穂はぱっと顔をあげた。大きな瞳が、きらりと光った。 「今さら遅いわ。その気があったなら、私が文句ゆうた時にそうしてくれたらよかったんや。せやのに、私を殴っただけやってんか。もうあんたには、ほとほと愛想が尽きたわ」 「他に男ができたんやろ」  坂上が歯の間から言葉を押しだした。菜穂は薄い唇を曲げて笑った。 「あんたかて、他に女、作ってたやない」 「あれは、ちょっと遊んだだけや」 「ほな、私が遊んだらあかんゆうの」 「やっぱり他の男と遊んだんかっ」  坂上は腰を浮かせて、炬燵越しに菜穂につかみかかろうとした。横から夫が手を伸ばして、坂上の腕を押さえた。 「坂上さん、暴力はあきまへんで」 「うるさいなぁ、おっさん」  坂上は浩一郎を睨みつけた。しかし、つかまれた腕が痛いのだろう。顔をしかめて、また腰を下ろした。  小柄な夫だが、二十代前半はずっと建築現場で働いていたので、体力はある。啖呵《たんか》は立派だが、痩《や》せてひょろひょろした坂上なぞ簡単に組み伏せることができるだろう。  私は少し気が楽になって、流しの前に戻り、また水仕事にとりかかった。洗い桶の中から、白い泡にまみれた夫の茶碗を拾いあげる。高校時代の友人から、結婚祝いにもらった夫婦《みようと》茶碗の一方だ。水道の蛇口をひねって、洗剤の泡を湯で流す。ぬるぬるした陶器の肌が滑らかになってくる。洗いたての茶碗から白い湯気が昇る。  私は、次に桶の中から自分の茶碗を探りだす。夫のものより少し小ぶりの茶碗を丁寧にスポンジでこする。 「ほな、おまえは、男ができたさかい俺と別れる、ゆうんやな」 「違うわ。あんたみたいなやくざな男とは、もうやってけへん、ゆうてんのや」  坂上と菜穂の言い合いが続いている。  私は耳を塞《ふさ》ぎたくなる。自分と夫の間では決して起こらない類《たぐい》の諍《いさか》いだった。結婚して四年、もちろん些細《ささい》な口喧嘩《くちげんか》はあった。たいてい何事も鷹揚《おうよう》に受け流す浩一郎だが、自分が馬鹿にされたと感じると、猛烈に怒りだす。一度、気軽な気持ちで「なんも、わかってへんな」と呟いた時、いきなり頬《ほお》を殴られた。以来、私は夫に対する言葉遣いに注意するようになった。夫婦関係とは、そうやってお互いの気遣いを積みあげていくことで築かれていくものだと思う。  だが、菜穂も坂上も、そんな思いやりなんか、とうにどこかに棄《す》ててしまったらしい。二人は醜い言い争いを続けている。 「俺がやくざな男やったら、おまえはなんや。すぐに店の客に色目を使ってからに」 「客商売やさかい、しょうがないやろ。それに、他の男とどうしようと、もう私はあんたの女やあらへん。関係ないわ」 「ほな、やっぱり男がおるんやなっ」  炬燵が揺れる音がした。足音が響いて、菜穂の小さな悲鳴があがった。 「坂上さん。菜穂ちゃんに手ぇ出したら、警察を呼ぶで」  夫の声が飛んだ。 「呼びたけりゃ、呼びゃあええわ。その代わりにな、あんた、自分がどうなるかわからへんで。俺には、ミナミの怖い人がぎょうさんついてんやで」  菜穂が甲高い声で笑った。 「下っ端のくせに、えらそうなことゆうて」 「なんやとっ」  器の割れる鋭い音が響いた。私はぎょっとして水道の蛇口を止めた。 「坂上さんっ、気ぃ鎮めてください」  夫が叫ぶ。障子ががらりと開いて、妹が割れた湯飲み茶碗を持って出てきた。 「お姉ちゃん、布巾《ふきん》、布巾」  私は急いで流しの縁に置いた布巾を手渡した。  茶碗の破片をビニール袋にいれながら大丈夫かと聞くと、妹はこわばった顔で頷《うなず》いて、背後を振り返った。茶の間では、夫が坂上の肩を押さえて再び座らせているところだった。坂上の顔は赤くなり、目は血走っていた。肩で息をしているのがわかる。  菜穂は忌ま忌ましそうに呟いた。 「ほんま、しつこい男やわ」 「あんたもわざわざ坂上さんを怒らせるようなこと、いわんかったらええのに」 「かまへん、かまへん。今まで、いいたいことも怖うていえへんかったんやもん。今日は、お義兄さんがついててくれはるから、思いきりゆうたるわ」 「ええ加減にしとかんと、いくら浩一郎さんでも押さえられんようになるかもしれへんで」 「あんなへなちょこ男。お義兄さんやったら、ひとひねりやろ。それより、私に戻る気がないことをはっきりいうたらへんと、かえって後が面倒《めんどう》や」  妹は冷たい口調でいい放った。  この子は昔からそうだった。欲しいものに飽きたら、平気で棄てる。執着心なぞ無縁だ。そして、いらなくなったものは、「お姉ちゃん、これやるわ」と、こともなげにくれたものだ。両親が買ってくれた、着せ替え人形のドレス。伯父《おじ》からもらった止め金に薔薇《ばら》の花のついたバッグ。私は何でも大事にした。どんな小さなものでも棄てることができなかった。子供部屋は、私の持ち物でいっぱいだった。自分のものだけでなく、妹のいらなくなったものまで蓄えこんでいたから。  十代に入ると、菜穂の廃棄処分のリストには、男たちも加わった。華やかな顔立ちの妹は、小学校の時から、男の子の憧《あこが》れの的だった。誰もが妹をちやほやした。妹は、男の子とつきあっては、飽きたからと、ぽいぽい棄てた。高校一年の時には妊娠事件を起こして、子供まで棄てた。年上の男性とラブホテルで逢引《あいびき》を重ねて、ついに妊娠してしまったのだ。中絶手術をしたのがばれて、父親と大喧嘩した。高校を卒業して社会人になっても、男関係の揉《も》め事《ごと》は尽きなかった。今回、坂上のところから逃げだして実家に帰らなかったのは、勘当同然の身になっていたからでもあった。 「とにかく、今晩でけり、つけたるわ」  菜穂は私に宣告すると、茶の間に戻って、ぴしゃりと障子を閉めた。 「坂上さん。人の気持ちゆうんは、力ずくでどうなるもんでもあらへんで」  夫がまだ説得を試みている。しかし坂上は、妹に、自分の許に戻れといい続ける。 「やめてよ、もうっ」  菜穂が悲鳴のような声をあげた。 「坂上さん。菜穂さんが、ここまであかんゆうてんのや。男らしゅう、諦《あきら》めたらどうでっか」 「あんたの意見なぞ聞いてへんわ。役にも立たん外野は炬燵の中へでもすっこんどけ」 「なんやとっ」  浩一郎が怖い声を出した。  私は湯飲み茶碗の破片の入ったビニール袋をつかむと、勝手口の戸を開けた。外の冷たい空気が流れこんできた。そのままつっかけを履いて、庭に出た。戸を閉めると、諍いの声は不意に遠くになった。  夫が声を荒げるのは聞きたくなかった。私の夫は、いつも優しく、おっとりした男性でいて欲しかった。  私は裏庭を横切って、物置の隣の塵《ごみ》置き場に行くと、ビニール袋をポリエチレンの塵箱に放りこんだ。塵箱の蓋《ふた》を閉めて、家のほうを振り向いた。台所の明かりが洩《も》れているのが見えるだけだ。ここから茶の間の様子は、さっぱりわからない。  私は大きく息を吸って、夜空を見上げた。白々とした星が瞬いていた。どうして人はいがみ合うのだろう。皆が優しい気持ちになれないものだろうか。  細長い裏庭のすぐ後ろは山の斜面になっている。山は険しい襞《ひだ》を重ねて、吉野の深い山嶺《さんれい》へと続いている。斜面を覆い尽くす木々が、星空に漆黒の陰影を落として揺れていた。  ごごおっ、ごおおおぉぅううっ。荒れ狂う葉音しか聞こえない。私は風の中に立っていた。木の葉が黒い雪のように空に舞いあがる。足許《あしもと》から、頭上から、背後から、風が私をなぶっていく。  坂上の一件も、この風のようなものだ。一夜のうちに荒れ狂うだけ。明日になれば、きっとすべては収まっているだろう。そしてまた、私と夫の平和な生活が戻ってくる。木々の葉音を聞いているうちに、私の気持ちは落ち着いてきた。不安感を、風が浚《さら》っていってくれた。  私は乱れた髪を掌《てのひら》で整えた。そして、全身が冷えきっているのに気がついて、急ぎ足で家に戻った。  勝手口を開けて、台所に入る。茶の間との境の障子はさっきと同じように閉ざされている。私は、かたん、と戸を閉めて、茶の間のほうに耳を澄ませた。  物音ひとつしなかった。  どうしたのだろう。まるで人の気配がない。  私は足音を忍ばせて、障子に近づいていくと、桟に指をかけて静かに戸を横に滑らせた。茶の間の炬燵《こたつ》に、夫と妹が隣合わせに座っていた。表の庭に面した縁側の障子も硝子《ガラス》戸も開いていて、冷たい風が吹きこんできていた。二人はその風にさらされながら、炬燵に入って黙々と羊羹《ようかん》を食べていた。夫の頑丈な顎《あご》が、黒い羊羹を押し潰《つぶ》す。菜穂は小さく割った羊羹を、すぼめた唇につるりと吸いこんでいる。ぺちゃぺちゃという音が、静かな部屋に満ちていた。 「坂上さんは……」  私は訊《たず》ねた。妹が開け放しになった縁側の戸を顎《あご》で指して、ぶっきらぼうに答えた。 「帰ったわ」  坂上のことだから、おおかた怒って縁側から飛びでていったのだろう。私はほっとした。 「よかった……」  その声に夫が顔を上げた。小さな目をぱちぱちとさせると、にっと笑った。 「せやな。ほんま、よかった、よかった」  そして、両腕を突きあげて伸びをした。 「こら、お祝いせなあかんな。志野、またたび酒、出してくれへんか」  夫がまたたび酒を呑《の》みたいといいだすのは、機嫌がいい時に限っていた。きっと坂上をうまくあしらうことができたのだろう。  私は気持ちが軽くなって、はいはい、と返事をして、台所に引っこんだ。  三畳ほどの細長い台所のひとつの壁の上半分が、果実酒用の作りつけの棚になっている。天井まで五段の木の棚に、色とりどりの硝子の広口瓶がずらりと並んでいる。淡黄色や赤色、乳白色に輝く果実酒の底には、草の実や果物が静かに沈んでいた。下段に置いた、果実を漉《こ》した後の一升瓶の列から、もう残り少ない茜《あかね》色の瓶を取りだす。白いラベルに『またたび酒』と記してある。私は小さなグラスを三個用意すると、またたび酒を注いで、茶の間に持っていった。  すでに縁側の戸は、菜穂が気をきかせて閉めてくれていた。 「はい、どうぞ」  炬燵の上に盆を置いて、夫の隣に腰を下ろした。そこは坂上の座っていた席だったが、もう座蒲団《ざぶとん》は冷えきっていた。  夫はグラスを手にして、しばしまたたび酒の茜色を見つめていたが、突然、大きな声でいった。 「ほな、乾杯でもするか」  菜穂が尻《しり》をずらせて、炬燵ににじり寄り、グラスを取りあげた。そして酒の表面に目を遣《や》って、眉《まゆ》をひそめた。 「なんや、塵、入ってんで」  グラスの中に、白い小さな塵のようなものが浮かんでいる。 「ああ、それなぁ……」  説明しかけた私を夫が遮った。 「気にせんでええ、菜穂ちゃん。またたび酒ゆうたら、そんなもんや。そのまま呑んでも、害にはならへん」  夫は誘うようにグラスを持ちあげた。私も、酒を手にした。 「ほんま、ありがとう。お義兄さん」  菜穂が笑いを含んだ声で、夫を横目で見た。夫は困った顔になった。 「とにかく、乾杯っ」  夫が、私と菜穂のグラスに自分のグラスをぶつけた。かつん、かつん。三つのグラスがぶつかった。  私は舌でまたたび酒を舐《な》めた。ほんのり甘い味が口の中に広がった。夫も菜穂も一気に呑んで、グラスを炬燵の上に置いた。  ざわざわわわわっ。  強い風が家にぶつかり、縁側の障子戸を揺らせた。沈黙がその場に広がった。深まる秋の夜。山の木々が虚空に吠《ほ》え続けていた。     二  暮れかかった西の空に、鱗雲《うろこぐも》が浮かんでいた。夕焼けが山々の緑を包みこみ、柔らかな色を放っている。私は頬《ほお》にへばりついた髪を払うと、背筋を伸ばした。  あたり一面の下生えの草を覆い尽くして、またたびの群生が広がっていた。夏の花時には白く変色していた葉は、今はもう緑色に戻り、茶色の蔓《つる》を飾っている。その蔓のあちこちから垂れ下がる薄黄色のものが、またたびの実だ。ビー玉ほどの大きさの実には、寸の詰まったオクラに似た形と、表面がでこぼこした歪《いびつ》な形をしているものと二種類あるが、私は歪な実だけ摘んでいく。  足許には、午後中かけて山を歩きまわって集めた木の実を入れた布袋が転がっている。今年は台風が少なかったおかげで、どの木もよく実をつけていた。ぐみ、かりん、やまぼうし、がまずみ、そして、またたび。  またたびの実を入れたビニール袋が次第に重くなってくる。採れば採るほど、たくさんのまたたび酒が漬けられるから、私は貪欲《どんよく》に摘み続ける。その酒を呑んで、顔をほころばせる夫の姿を思い浮かべながら。  浩一郎は、酒の他はこれといって趣味もない人間だ。十九歳の時に交通事故で両親を亡くして以来、がむしゃらに生きてきた。働くことに必死で、遊びを覚える暇もなかったのだという。大学を中退して、建築現場で働きながら弟二人を養ってきたことを考えると、無理もないと思う。  長年、弟たちの親代わりを務めてきたせいか、夫は私に対しても父親のような態度をとる。私より二歳年下だというのに、口のきき方から態度まで、やけに落ち着いている。だから初めて彼に会った時、もうとっくに結婚していると思った。  私が浩一郎と知り合ったのは、五年前のことだった。当時、私は実家のある橿原《かしはら》市の茶問屋で事務員をしていた。食品関係の会社の営業員として入社した彼がその問屋担当になり、出入りするようになったのだ。第一印象は、実直そうな人だな、という程度だった。彼のほうも、私をただの得意先の事務員以上にはみなしていなかった。そうして半年ほど過ぎた頃、高校時代の友人の結婚式に呼ばれた。  美容院で髪をセットしてもらい、珍しく化粧をして一張羅のドレスを着て結婚式場に行く途中、ばったり浩一郎と会った。休日出勤らしく、いつもの背広姿だった。会釈したのだが、彼はすぐには私だとはわからなかったらしい。怪訝《けげん》な顔をして歩道に立っていた。  ばつが悪くなって、そのまま通り過ぎようとした時、ようやく彼も気がついた。玉置さんやったんですか、といって、小さな目をぱちぱちさせた。 「いやぁ、こんな別嬪《べつぴん》さんやったとは知らへんかった」  次の週、彼は会社に電話をかけてきて、私を食事に誘った。私は最初戸惑い、冗談ぽくいった。 「そんなことゆうて。奥さんに叱《しか》られはっても知らへんで」 「いややな、俺、まだ独身やで」  浩一郎の返事に私は驚き、そしてこの運命の小さな変調に乗ってみる気になった。判で押したような生活に飽きていたこともあった。  そうして私たちの交際がはじまった。  きっと、あの時、友人の結婚式のためにおしゃれをしていなかったら、私の存在は一生かかっても彼の目には止まらなかったにちがいない。事務服を着て、化粧気もないままに仕事をしていた私は、壁の染みほどにも目立たなかったと思う。あの頃、私は二十八歳近くになっていた。会社に勤めて八年目。結婚話からも遠ざかり、男性と知り合う機会にも期待しなくなっていた。おしゃれをする気力も失い、毎日、実家と会社を往復していた。浩一郎と出会わなければ、私は今も独身のまま、あの薄暗い問屋の隅の事務机に身をかがめていたことだろう。  交際をはじめると、毎週のように会った。私は努力して、念入りに化粧をして身繕いを整えた。しかし、ある時、浩一郎にいわれたのだ。志野が、ほんまはきれいなんを知ってんのは、俺だけでええ、と。  私の心になんともいえない幸福感が広がった。私は、自分では決して美人だとは思っていない。ただ、化粧映えのする顔らしく、化粧をするとしないとでは、格段の差がある。浩一郎が、素顔のままでいいと暗にいってくれた時、私はもうすでに彼と結婚する意思を固めていたのだと思う。  結婚して、彼の生家に来た時、家の中はどこか荒れた感じが漂っていた。浩一郎が苦労して大学まで出した二人の弟も、それぞれ就職して名古屋と大阪で暮らすようになり、彼は一人でその家に住んでいた。いかにも寝るだけに使われていたらしく、畳は湿り、窓硝子は曇り、軒下には蜘蛛《くも》の巣が張っていた。  会社を辞めた私は、彼との新居を整えることに夢中になった。家を隅々まで磨き、窓には明るい色のカーテンを、壁には、美しい風景画をかけた。茶の間の座蒲団も、台所のテーブルクロスもクッションも、どれも私の手作りだ。家のあちこちに野草を生けて、小さな陶器の置物を買ってきては、食器棚の隅や箪笥《たんす》の上を飾った。そうやって私は、浩一郎のために家を作り変えてきた。それが私の喜びでもあった。  ビニール袋は、またたびの実でいっぱいになっていた。ズボンのポケットから輪ゴムを出して袋の口を縛ると、他の木の実の袋と一緒に布袋に入れた。  風が冷たくなってきている。空はいつか赤紫色に沈んでいた。私は布袋を持つと、またたびの蔓《つる》を掻きわけて歩きだした。少し行くと、草地は雑木林に変わった。枯れ葉の舞い落ちる小道を辿《たど》って林の中を歩く。木々の奥に、湿った空気が漂っている。坂道を下った先に、少し開けた場所が現れた。  斜面を削って作った平地に、崩れかけた寺のお堂がぽつんと立っている。剥《は》がれた壁の漆喰《しつくい》、壊れて傾いた観音開きの扉。屋根瓦もあちこちで滑り落ちて、歯が抜けたようになっている。雑草の生い茂る境内には、樒《しきみ》の木がにょきにょきと生えていた。訪れる人もいなくなり、樒の林となりかけた廃寺の境内を、私は横切っていく。  ほんの僅《わず》かだが、甘く爽《さわ》やかな香りが、境内の空気に混じっている。樒の匂いだ。濃い緑色の葉から立ち昇る芳香。私の顔に微笑《ほほえ》みが浮かぶ。  樒が好きだというと、人は、老人ならことさらに嫌な顔をする。樒は、死人《しびと》の木。墓場に捧げられ、家屋敷に植えることも忌まれているのは知っている。だが、私は気にしない。心地よい香りを放つくせに、人に敬遠されること自体、私が樒を好む理由なのかもしれない。植物でも人でも、いい性質を持っているからといって、愛されるとは限らないのだ。  この境内の横から、知っている者の目でないとわからないほどに細い道が、私の家まで続いている。榛《はしばみ》や青木、椿《つばき》といった低木の間を下っていくと、途中で巨大な樒の木に出くわす。高さ十メートルほどある、樒の古木だ。地面から突きだした何本もの黒っぽい幹が、蛇が絡まり合うように四方に伸びている。空をびっしりと埋め尽くす濃い緑の葉。ことさらに強くなる樒の芳香。  車輪形に広がる葉の間に覗《のぞ》く小さな緑色の実に気がついて、私は足を止めた。  樒の実だった。またたびの実ほどの大きさで、八角形の星形をしている。この実は古来、悪しき実と呼ばれ、樒の名は、そこから「あ」の字を取ったことに由来していると、どこかで聞いたことがある。  他の木と同じように実をつけても、悪しき実といわれて、敬遠されることを思うと、かわいそうな気がする。私は、薄い緑色のふっくらとした実を指先で触り、摘もうとしたが、結局、やめた。そのまま視線を地面に落とすと、土上に露出している樒の根の間に、水色の四角い箱が落ちていた。何だろうと思って、枝に頭がぶつからないように腰をかがめると、樒の根本のほうに近づいていった。  煙草の箱だった。美しい水色の地に、黒い女性の影が描かれている。「GITANES」という文字が見えた。  坂上が吸っていた煙草と同じ銘柄だ。  箱を拾いあげると、しっとりと濡《ぬ》れている。中には、まだ吸っていない煙草が二本残っていた。いったい誰が落としたのだろう。夫は禁煙しているし、妹はメンソール煙草しか吸わない。この田舎では、こんな外国煙草を吸うような者は、まずいない。不安な気分を覚えて、あたりを見回した。そしてそこが、私の家を見下ろす恰好《かつこう》の場所であることに気がついた。  樒の枝の間にできた隙間《すきま》から斜面の下にある平屋の家がすっかり見渡せる。縁側も茶の間も寝室も。窓に下がるカーテンの間から、炬燵《こたつ》の天板も見える。庭の物干し場では、今朝干した妹の花柄のネグリジェが風に翻っていた。  坂上が、ここにやってきたのだ。  そう思って、私はぞっとした。  この前、坂上が家に怒鳴りこんできてから十日が過ぎていた。妹は、まだ私の家に居候している。居場所を突き止められた以上、実家に戻ったほうがいいかもしれないとも考えたが、坂上の来た翌日、夫にいわれてそれとなく実家の様子を見に行くと、あの男は、私たちの家に来る前にすでに実家を訪れていたことがわかった。両親は、私を心配させまいと黙っていたという。坂上は実家でもすごんでみせたらしく、父は菜穂に対してかんかんに怒っていた。私は、妹の居場所を知らせることもできずに、家に帰った。  あれ以来、坂上は姿を見せていない。妹は、あの男も、ようやっと懲りたんやろ、などと呑気《のんき》にいっていたが、彼は諦《あきら》めてなぞいなかった。ここに来て、こっそり家の様子を窺《うかが》っていたのだ。煙草に火をつけて、怒りのこもった目つきで、私たちの家を睨みつけていたのだ。  私は、煙草の箱を茂みに棄《す》てた。そして樒の木の下から抜けだすと、再び布袋を肩にかけて、急な斜面を降りはじめた。木立の間に田園風景が開けてきた。秋の稲刈りも終わり、褐色の丸い堆《にお》が田圃《たんぼ》に点在する。  橿原市から車で二十分ほどのところにあるこの村は、人口千人にも満たない過疎の地だ。バスがもよりの駅まで通っているが、車がないと不便な場所だ。ふと、坂上は車でここまで来たのだろうか、と思った。見慣れない車が近くの路上に止まっていたなら、気がついたはずだ。だが私にはそんな記憶はない。そういえば菜穂は、坂上の車は故障で工場に入れてあるといっていた。あの夜もタクシーを飛ばしてきたようだった。きっと坂上は、バスかタクシーでこの近くで降りて、山に登ってきたのだ。枯れ葉を踏みしめて、あの樒の下に忍び歩いていたのだ。  私は背後を振り向いた。樒の巨木が風に揺れていた。薄緑色の葉裏を見せて騒いでいる。  不意に樒の葉が舞いあがり、ごつごつした幹の奥が露《あらわ》になった。古木のつけ根付近に漂う闇《やみ》は、やけに深かった。誰か潜んでいても、わからないほど暗かった。風の具合か、樒の仄《ほの》かな香りが漂ってきた。わけもなく恐怖にかられて、小道から庭に飛びだすと、裏手に回って勝手口の戸を開けた。電灯もつけてない薄暗い台所に、ぬっと男が立っていた。  私は息を止めた。布袋の紐《ひも》が肩から滑った。布袋が地面に落ちて、鈍い音をたてた。 「なんや、志野か」  瞬きして、薄闇を透かし見ると、夫だった。帰ったばかりらしく、背広姿のまま流しに立って、コップに汲《く》んだ水を呑《の》んでいる。  私の体から力が抜けた。 「ああ、浩一郎さん……」  私は靴を脱いで台所に上がると、電気をつけた。細長い台所がぱっと明るくなった。夫は電灯を眩《まぶ》しそうに仰いだ。四角ばった顔が、疲れたように見えた。 「えろう早かったんですな。すぐに、お風呂《ふろ》の支度、しますわ」  布袋をテーブルに置いて、エプロンに手を伸ばした私に、夫は首を横に振った。 「いや。これからまた橿原市に戻って、ちょっと取引先の人と会わなあかんのや。風呂は後でええわ」  ほな、どうして今頃帰ってきたん、と聞きそうになって、私は言葉を呑みこんだ。考えてみれば、坂上がやってきた夜以来、夫は早く帰宅するようになっていた。 「坂上さんのことが気になって、様子を見に帰ってくれはったんやね」  夫は、まあな、と低く答えて、台所の横に延びる廊下に目を遣《や》った。その先に、菜穂が寝起きしている離れがある。妹の好きな歌手の歌が流れてくるところをみると、部屋にいるようだった。  私は夫に囁《ささや》いた。 「さっき山に行ったらな、外国の煙草が落ちてんの、見つけましてん」  夫は太い眉《まゆ》をひそめた。 「坂上さんが来た夜、吸うてた水色の箱の煙草。このへんであんな外国の煙草吸う人、他におらしまへんやろ。坂上さん、またここに来たんですわ」 「もうええ、ゆうな」  夫が急に怖い声をだした。私は、びくっとした。また何か気に触ることをいったのだろうか。夫の顔をおずおずと見ると、浩一郎は困ったように鼻の脇《わき》を人さし指でさすった。 「すまん。あいつのことを思い出したら、つい腹が立ってしもうて……」  私に対して怒ったのではないらしい。ほっとして、布袋からビニール袋をいくつも引きずりだした。 「見て、浩一郎さん。山で木の実、ぎょうさん採ってきましてん。これで、今年も果実酒がいっぱい作れますわ」 「ほうか、またたびもあったか」  夫の顔つきが和らいだ。 「あった、あった。ほら、こんなに」  私は食器棚から笊《ざる》を出してきて、またたびの実を袋から移した。薄黄色のころころした実が、笊に溢《あふ》れた。夫は隣に来て、丸い実をつかんで掌《てのひら》で転がした。 「粒揃《つぶぞろ》いのええ実や。お袋も、こんなええ実しか使わんかったわ」  私は肩をすぼめて、小さく笑った。  結婚当初、この家をどう変えてもいいが、ただ一か所、触ってはくれるな、と浩一郎に釘《くぎ》をさされた場所があった。台所の作りつけ棚だった。そこには古ぼけた空の一升瓶が何本も並んでいた。  ——ここは、お袋が、自分で漬けた果実酒を置いとった場所なんや。両親が死んでもう十二年もたつよって、たいがいの酒は呑んでしもうたけどな。  浩一郎は、中身の残っているただ一本の瓶に触って続けた。  ——けど、このまたたび酒だけはよう呑まへん。親父《おやじ》が好きな酒でな。お袋は、親父のために毎年、これを漬けとった。けど、もうこの酒を造る者も、呑む者もおらんようになってしもうた……。  いとおしそうに埃《ほこり》にまみれた一升瓶を撫《な》ぜる夫の姿に、私の胸は痛んだ。浩一郎にとって、またたび酒は、両親の存在の象徴だったのだ。この人のために、またたび酒を造ってあげよう。私は心の中でそう決心した。  最初の年はうまくいかなかった。夫は顔をしかめて、お袋の造った酒はこんな味やなかった、といった。二年目になると、なんとか呑める酒が造れるようになったな、と呟《つぶや》いた。三年目、浩一郎は古ぼけた一升瓶を見上げて、おふくろのまたたび酒、呑もうか、といった。  驚いた私に、彼は笑いかけた。  ——これからは志野が作ってくれるよってなぁ。  そして今年で四年目だった。  この四年間、またたび酒だけでなく、練習と思って、色々な果実酒に挑戦してきた。最初は蜜柑酒《みかんしゆ》や苺酒《いちごしゆ》といった、上品な果実酒がほとんどだった。しかし、夫が精力のつく酒が好きだといいだしたので、木の実のことを書いた本を読み漁《あさ》り、他の酒も試しはじめた。なるこゆりの根から黄精酒《おうせいしゆ》を、ねずみもちの果実からは女貞酒《によていしゆ》。自然生《じねんじよう》の根からは山薬酒《さんやくしゆ》を造った。しかし夫がいちばん好きなのは、やはりまたたび酒だ。他の酒は、数年越しで残っていたりするが、またたび酒だけは、毎年作らないと間に合わない。  夫は、ぱらぱらとまたたびの実を笊に落とすと、果実酒の瓶の並んだ棚を眺めた。 「ほな、新しい酒が出来る来年のはじめまでに、ここにあるもんは全部、呑んどかなあかんな」 「そんな急いで呑んで、体、壊したら元も子もあらへんで」  私は笑いながら、やかんを火にかけた。  その時、背後で「お姉ちゃん」という声がした。私と夫が振り向くと、茶の間との境の敷居に菜穂が立っていた。緩いパーマをかけた髪を肩にたらし、むちりと肉のついた尻《しり》を短めの黒のバックスキンのスカートに包んでいる。赤い厚手の上着をはおり、手にしたハンドバッグをぶらぶらさせていった。 「私、これからちょっと出かけるわ」 「出かけるて、どこに」 「中学の時の友達が久しぶりに橿原市で呑まへんか、ゆうてるから会《お》うてくる」  このところ家にこもっていた妹だった。たまに外に出るのも、気晴らしになっていいかもしれない。 「あんまし、遅くならんうちに帰ってきいや」 「わかってる。わかってる。ほんでな、お義兄さんに橿原市まで車で送って欲しいんや。どうせまた会社に戻るんやろ」  しっかり二人の会話を聞いていたらしい。私は眉をひそめて、夫の顔を窺った。夫は軽く頷《うなず》いた。 「ええよ。ほな、菜穂ちゃん、服、着替えるまでちょっと待っとってや」 「ありがとっ」  菜穂は無邪気にいった。  寝室に行きかけた夫に、私は小声で謝った。 「ごめんなさい、面倒《めんどう》かけて……」  夫は、私の肩を叩《たた》いて微笑《ほほえ》んだ。 「気にするな。家族は大事にせんとな」  浩一郎が廊下に消えると、菜穂は私の横にやってきて脇腹をこづいた。 「お義兄さん、ほんま、ええ人やわ」 「まあな」 「あれで、もうちょっと顔がよかったらな」 「菜穂っ」  私は妹を睨《にら》んだ。菜穂はけらけらと笑って、ふと私の手許《てもと》に目を止めた。 「なんやの、それ」 「またたびよ」  私は笊を揺すって答えた。 「なんや、気味の悪い形してるなぁ」  確かに、でこぼこしたその形は醜悪ともいえる。私は、またたびの実をつまんで、妹の顔の前にかざした。 「そらそうや。この実の中には、またたび油虫が、卵を生みつけてるんやさかい」 「またたび油虫」  菜穂は赤く塗った唇を歪《ゆが》めた。 「またたび酒はな、その虫が喰《く》うた実で作らへんと、おいしゅうないんよ。虫が喰うた跡に、焼酎《しようちゆう》がしっかりと滲《し》みこむよってな」 「ほな、ひょっとして、この前、呑んだまたたび酒も、その実で作ったん?」 「せやよ。上に小さい滓《かす》みたいなもんが浮かんどったやろ。あれが、またたび油虫の幼虫や」  菜穂は吐きそうな顔になった。 「そんな気持ち悪がらへんでもええやない。またたび酒、呑んだかて、悪いことあらへん。体にええくらいのもんやて」  私は夫の口癖の受け売りをした。しかし、菜穂は下唇を突きだして、歪《いびつ》なまたたびの実を睨んだだけだった。  廊下から、普段着に替えた浩一郎が出てきた。 「ほな、菜穂ちゃん。行こうか」  菜穂はおおげさに首を震わせると、またたびの実から顔を背けた。 「すみませんねぇ、お義兄さん。お願いしますわ」  茶の間の先の玄関に向かう妹の背中に、私は声をかけた。 「菜穂、あんまし遅うまで、遊び歩いてんやないよ」 「いややな、お姉ちゃん。私、もう子供やないで」  坂上がこのあたりをうろついているかもしれない。喉元《のどもと》まで、その言葉が出かかった。しかし、妹を不必要に怖がらせても仕方ないと思った。 「とにかく、気ぃつけて」 「わかった、わかった」  菜穂がおざなりに答えた。 「ほな、行ってくるわ」  浩一郎の声がして、玄関の戸が閉まった。家の前の階段を県道に降りていく足音が続く。斜面にへばりついた家まで上がってくる道がないために、車は下の道路沿いの車庫に置いてある。まもなくエンジンの音が響いて、夫と妹が出発したのがわかった。  そして静寂が訪れた。家の中は、物音ひとつしない。私は、ことさらに大きな音をたてて、布袋から集めてきた木の実の袋を取りだした。  ねぐらに帰る鳥が鳴いている。  私は顔を上げて、窓の外を覗《のぞ》いた。もう風はやみ、木々は舞い降りてくる夜の帳《とばり》を静かに待ち受けている。墨色の裏山の稜線《りようせん》が、青味がかった空に際立つ。  あの山の中から、今にも坂上が出てきそうな気がした。そうなったら、どうすればいいのだろう。警察に電話をかけても、すぐに来てくれるとは限らない。一人で、あんな危険な男と立ち向かわなくてはならないのだ。  流しの包丁が目に止まる。だめだ。包丁なんか出したら、かえって逆上して何をするかわからない。いくら痩《や》せた坂上とはいえ、男にはちがいない。私を一撃で殴り倒し、怒りのあまりそこら中のものを壊してまわるだろう。手作りのクロスをかけたテーブルを倒し、座蒲団《ざぶとん》を放り投げ、きれいに磨いた床に果実酒をぶちまける。  気がつくと、やかんの口から白い湯気が噴きあがっていた。  私は火を止めて、やかんの把《と》っ手をつかむと、笊の中のまたたびの実に熱湯をかけた。沸騰した湯を浴びて、またたびの実から湯気が立ち昇る。実の中に潜んでいるまたたび油虫は、これで死ぬはずだ。  またたびの実は、じいじいと音をたてて、小刻みに震えていた。幼虫の断末魔の叫び声のようなその音を聞きながら、私は薄黄色の実を睨みつけていた。     三  暗闇《くらやみ》の中で、樒《しきみ》の巨木が揺れている。その根本付近に佇《たたず》む黒い影。革のジャンパーに身を包み、背中を丸めて立つ男。  男の左手が動いて、ぱっと口許に光が灯る。彫りの深い顔が闇に浮かびあがる。  坂上だ。怒りに満ちた瞳《ひとみ》で、じっとこちらを見つめている。その視線が私を蝕《むしば》み、皮膚に浸透してくる。またたび油虫に喰われているように、体の奥底からむず痒《がゆ》くなる。私は下半身に手を伸ばす。滑らかな腹の肌から、脚のつけ根へと。そして、そこに蠢《うごめ》く男の手にぶつかる。  私ははっとして目を開いた。  月明かりに仄白《ほのじろ》く光る障子が見えた。薄暗い畳の部屋に、蒲団の擦れる音がする。そして、股《また》の奥で動いているごつごつした指を感じた。  私は蒲団に横たわったまま、体をこわばらせた。酒臭い息が耳に吹きかかる。夫の体臭が私を包む。  深夜だった。家の周囲を駆け巡る風の音が続いている。浩一郎の脚が私の腰に絡みつく。夫のもう片方の手が、私のパジャマの下に這《は》い入り、乳房を撫ぜる。  私は大きく息をした。夫は、私の太腿《ふともも》の間でさらに激しく指を動かす。身を捩《よじ》る私に夫がのしかかってきて、下着を脱がせはじめた。夫の股間《こかん》が固くなっている。彼の荒い息が顔に吹きかかる。私のパジャマのズボンも下着も、足許にくしゃくしゃになって押し遣《や》られる。パジャマの上着がめくれあがり、夫が乳房を口に含む。私は夫の背中を撫ぜる。筋肉の張った背中をいとおしげに……。  その時、小さな声が聞こえた。  啜《すす》り泣く女の声。家の奥から、廊下を伝ってこの寝室まで響いてくる。  夫の動きが止まった。 「菜穂ちゃんか……」  私は夫の背中に置いた手を蒲団に落とすと、首をもたげた。 「そうみたい」  声は離れの部屋から聞こえていた。時々、しゃくりあげる音が混じる。  菜穂が泣いているのだ。私は慌てて足許に絡みついた下着をまさぐり、身につけた。そしてパジャマのズボンを穿《は》いていった。 「私、ちょっと見に行ってきますわ」 「せやな」  夫は私から身を引いて、蒲団にもぐりこんだ。私は起きあがると、襖《ふすま》を開けて寝室を出た。  暗い廊下の突きあたりが離れだ。引き戸の隙間《すきま》から四角く光が滲みでている。その光に向かって素足で歩きながら、妹の泣き声が聞こえてよかった、と思った。  結婚して四年たっても、夫との夜の営みは苦痛でしかなかった。だが、どうしてそんなことをいえるだろう。私は、いつも彼がのしかかってくるたびに、身を捩って悦《よろこ》ぶふりをするしかない。ほんの少し、心地よいと思う時もある。しかし、たいがいは不快な気持ちになるだけだ。どちらにしろ、夫は私の反応にそれほど気を配っているようには思えない。夜中、私が眠っていると、さっきのように一方的に愛撫《あいぶ》をはじめ、私が目覚めたのを確認してから、体に押し入ってくる。そしてさっと果てて、満足気に自分の蒲団に戻っていく。彼は、妻もまた満足していると信じて疑わないのだ。だが、私は夫が手を伸ばしてくるたびに、気が重くなる。  子供ができないのは、私が夫婦の交わりを嫌っているせいかもしれない。夫は決して淡泊なほうではないし、子供を欲しがってもいる。なのに、妊娠しない。私も、もう三十三歳。そろそろ焦るべき年齢なのに。  子供のことだけが、私と夫との幸福な生活に落ちる影だった。でも、こればっかりは、どうしようもない。それにたぶん、私自身、夫ほど子供を切望してないのかもしれない。私は今のままの生活に充分満足していた。家を整え、夫の身の回りに心を配る生活。私には、子供の存在が二人の間にそれほど必要とは思えない。  妹の部屋の前に来た。 「菜穂ちゃん」  私は声をかけて、引き戸を開いた。  枕許の電気の光に照らされて、菜穂が蒲団の中でうつ伏せになって啜り泣いていた。 「お姉ちゃん……」  菜穂は片肘《かたひじ》を起こした。私は妹の横に座った。 「いったい、どうしたんや」  菜穂はごろりと体を動かして、蒲団に仰向けになると、私を見上げた。大きな瞳が涙に濡《ぬ》れている。 「怖かった。坂上が、坂上がここに来たみたいなんや」  私は部屋を見回した。八畳の離れの部屋は、普段は物置になっていた。浩一郎の両親の箪笥《たんす》や、籐《とう》の椅子《いす》や座卓が置かれている。使われなくなった家具類に囲まれた部屋に、誰も潜んでいる気配はない。 「坂上がここに来るはずないやないの」  私は明るい口調でいった。菜穂はもどかしげな顔をした。 「そら、わかってんやけど……」  その時、背後で足音がして、大丈夫か、という夫の声が聞こえた。振り向くと、浩一郎がパジャマの上にトレーナーを着て、部屋に入ってきたところだった。 「ああ、浩一郎さん。菜穂が、坂上が来たゆうて」  夫は苦笑して、私の隣にかがみこんだ。そして、幼い子をあやすようにいった。 「なあ、菜穂ちゃん。こんな夜中に誰も来るはずないやろ。それに、もし坂上が来たかて、俺《おれ》がおるよって、安心しぃや」  菜穂はこくりと頷いた。その頼りなさそうな風情に、私は幼い頃を思い出した。淋《さび》しがりやの妹は、一人きりにされると、いつもこうやって泣いて、周囲の注意を引こうとしたものだった。大人になっても、そんな妹の子供っぽさは変わっていない。 「今晩、一緒に寝たげようか」  菜穂は微《かす》かに笑い、艶《つや》やかな大人の女の表情を浮かびあがらせた。 「ええわ。一緒に寝るなら、男の人のほうがええ」  私は内心ひやりとした。菜穂は、さっきの私と夫の交わりを知っていたのではないか、と思った。羞恥心《しゆうちしん》が湧《わ》いてきて、次の言葉が出てこないでいると、妹は掛け蒲団を引っ張りあげていった。 「冗談や、冗談。ごめんな。こんな夜中に起こしてしもうて。もう落ち着いたから、かまへん。私、寝るわ」  浩一郎は頷《うなず》いて腰を上げた。 「そら、よかった。怖うなったら、いつでも俺らを呼んだらええよってな」 「ありがとう、お義兄さん。お姉ちゃんも、寒いよって、もう部屋に戻って」  まだ少し気掛かりではあったが、夫と一緒に部屋を出た。廊下で浩一郎は、私を振り向いた。 「なんや、体が冷えてしもた。台所で、山薬酒でも呑《の》んで来るわ。あれ呑むと気が鎮まるゆうさかいな」  引き戸の向こうで声がした。 「お義兄さん、私もそれ呑みたい」  私は顔をしかめた。 「また、そんな甘えたことゆうて」  夫は苦笑いして、戸越しに声をかけた。 「わかった。今、持っていったるわ」 「いえ、私、行きます」  しかし夫は私の背中を寝室のほうに押した。 「ええ、ええ。志野はもう寝や。どうせ、おまえは呑まへんのやろ、俺らのために風邪でもひいたらつまらん」 「けど、どの瓶か、わからへんやろ」 「おまえ、ちゃんと瓶に名前、書いてくれたあるやないか。俺かて字くらい読めるわ」 「瓶は右のほうのを取ってくださいな。そっちが古いほうのお酒やよって」 「わかっとる、わかっとる」  夫はもう寝ろ、というふうに手を振ると、台所に消えた。私は寝室に戻って蒲団にもぐりこんだ。  台所で、夫が果実酒を探している音がする。あの無骨な指で、グラスに酒をついでいる姿を想像して、私は微笑《ほほえ》んだ。  風の音が家の周りに渦巻いている。月明かりに照らされた山の木々の影が障子に映っていた。日一日と冬が近づいてきていた。木々も冬の準備に入ろうと、葉を落とすために風の中で全身を躍らせている。  だが、外でどんなに風が吹き荒れようとも、この家の中までは入ってこない。夫がいて、私を守ってくれるから。  目を閉じて、眠りに入ろうとした時、ふと樒の香りを嗅《か》いだ気がした。私は頭を起こして、匂いのする障子のほうを見遣った。  そこに男の影が落ちていた。肩を丸めて立っている、ひょろりとした男。  心臓が止まりそうになった。  まさか。坂上がいるはずはない。あれは妹の思いちがいだったのだ。  ざあああっ。葉音が響いて、障子の男の影が崩れた。  白い障子に映っているのは、揺れる木の影でしかなかった。     四  麗《うらら》かな秋の日射しを浴びて、ころころとしたまたたびの実が並んでいる。薄黄色の液果は、天気のいい日を選んでじっくり乾かしたおかげで、茶色に干からびている。これを氷砂糖と焼酎《しようちゆう》に漬けておけば、二か月後には、またたび酒が出来上がる。  私は、またたびの実の上に落ちていた枯れ葉をつまんで棄《す》てると、笊《ざる》を抱えて立ち上がった。  庭先から村が見渡せる。鮮やかな赤や黄色に染まった山々。褪《あ》せた緑の草に縁取られた田圃《たんぼ》の畦道《あぜみち》。家のすぐ下の県道を学校帰りらしい中学生たちが二、三人歩いている。 「お姉ちゃん」  振り返ると、縁側に菜穂が出てきていた。芥子色《からしいろ》のセーターに黄色のスカートを穿いている。セーターの裾《すそ》をつまんで、妹は甘えた声でいった。 「これ、貸してくれへん」  よく見ると、私の服だった。まだ勤めに出ていた時、いいセーターの一枚くらい持っていないといけないと店員に勧められて買った、カシミヤ製だった。衣装|箪笥《だんす》の奥にしまっていたのを、ちゃっかり見つけ出してきたらしい。 「貸してゆうたかて、あんた、もう着てるやないの」  菜穂は赤く塗った唇の間から舌をぺろりと出した。 「ええやろ。私、これから面接があるんやし」 「面接?」  妹は、手にしていた新聞の折り込みのビラを振った。 「求人広告で、仕事、見つけたんや。いつまでもお姉ちゃんとこに厄介になってんのも、気ぃひけるよってな」 「へえ、どんな仕事やの」  私は縁側に近づいていった。妹は広告を読みあげた。 「ブティック店員募集。高給優遇。完全週休二日制」 「よさそうやないの」 「やろ?」と、妹は胸を張った。ぴったりしたセーターに丸く張った乳房が浮きたった。 「けど、ブティックやし、ちょっとはええ服、着ていかんとかっこ悪いもんな」 「そらそうや。ええよ、着ていきや」 「ありがと」  菜穂は嬉《うれ》しそうにいった。私は縁側に笊を置くと、そっと聞いた。 「お金はあんの」  菜穂の表情が少し曇った。坂上の所から飛びでてきてから、菜穂には収入がないことはわかっていた。私は前掛けのポケットから財布を取りだして、一万円を渡した。 「浩一郎さんには黙っといてや」 「すまんな、お姉ちゃん。働きだしたら、倍にして返すよってな」  菜穂はスカートのポケットに札を入れて、微笑んだ。 「ええよ。倍になんかせんでも。私は、菜穂がちゃんとした生活をはじめてくれたら、それだけで満足やわ」  妹は縁側に座りこむと、うなだれた。私も隣に腰を下ろした。 「お父さんも、口では、あんたを勘当したゆうてはるけど、心の底では心配してはるんで。早《はよ》うちゃんとして、安心させたってや、な」  菜穂は黙っている。いつになくしおらしい様子に、私は力を得て続けた。 「若い時は、派手な生活に目がいくもんや。けどな、菜穂。派手な生活は、しょせん金めっきや。いつかはめっきが剥げる。地味でも、着実な生き方がいちばんやで。お姉ちゃんは、あんたが今度こそ目を覚ましてくれるのを願ってるんよ」 「私かて、できるもんなら、そうしたい」 「できるって」  菜穂は唇を震わせて、私をちらりと見た。 「お姉ちゃん……私、怖いんや」 「怖いて?」  菜穂は怯《おび》えた顔で囁《ささや》いた。 「坂上が……私をまだつけ回してんや」  樒《しきみ》の木の下に落ちていた煙草の箱。そして、一週間前の夜、障子に落ちた影のことを思い出した。 「坂上、またあんたの前に現れたんか」  私は妹の顔を覗《のぞ》きこんだ。菜穂は唇を噛《か》んで頷《うなず》いた。 「この前、橿原市まで買物に行った時、坂上に後をつけられたんや」 「ほんで、あの男、あんたになんかしたん」  菜穂は首を横に振った。 「こっそり私を見とっただけやったけど、それがまた不気味でたまらへん。坂上がうろうろしてる限り、私、新しい生活に入れへん気がする」 「そんなことないて」  私は妹の肩を揺すった。 「安心しや。私らがついてる。この家におったら、大丈夫や。浩一郎さんが守ってくれるよってに」  菜穂の目許が和らいだ。 「せやな。お義兄さん、あれでけっこう頼りになるもんなぁ」 「あれでけっこう、とはどういうことや」 「あははは。かんにん、かんにん」  明るく笑って、ふと山のほうを見た菜穂が、きゃっ、と悲鳴をあげた。 「どうしたんや」 「さ、坂上が……」  妹は家の西側に立ちふさがる山を指さした。  私はそちらを見た。真っ先に目に飛びこんできたのは、あの樒の巨木だった。こんもりとした葉が午後の陽光を浴びて照り輝いているのに、その葉の奥はやけに暗い。  私はとっさに聞いた。 「あの樒のとこか」  菜穂の顔が青くなった。 「やっぱり……」  山腹の草に邪魔されて、樒の木の下はよく見えない。私は頭を動かして、なんとかその茂みの奥の人影を見つけようとした。 「隠れたんやろか。誰も見えへんけど」 「たぶん、私の見まちがいや。坂上のこと、気にしすぎてるだけやわ」  菜穂は話を打ち切るようにいうと、私の膝《ひざ》に手をついて立ちあがった。 「そろそろ私、行くわ」 「大丈夫? 坂上、出てきぃへんかしら」  私はまだ樒の木を眺めていた。強がりをいっているが、菜穂はほんとうに坂上を見たのかもしれないと思った。 「大丈夫やて」  菜穂はきっぱりと答えると、茶の間に引っこんだ。  それでも私はしばらく縁側に座って、山に目を凝らしていた。いくら見ても、樒の古木の下に坂上は現れなかった。だが、先日、あそこに彼の煙草が落ちていたのだ。また、同じ場所に戻ってきても不思議ではない。 「いってきまぁす」  縁側の脇《わき》の玄関から、菜穂が飛びだしてきた。そして私に手を振ると、元気に家の前の階段を降りていった。  私は苛々《いらいら》と、もう一度、樒のほうに目を遣《や》った。あそこに坂上がいるのだろうか。木の根本にしゃがみこんで、菜穂が出かけるところをじっと監視しているのだろうか。  いや、菜穂は見まちがいだといった。坂上はあそこにはいないのだ。  しかし、雑草に隠れた樒の下で、息をひそめてこちらを窺《うかが》っている二つの目が頭に浮かぶ。  突然、私は腰を上げた。こんな不安な気持ちを抱えたまま、夫が帰ってくるまで家にいられはしない。  庭を横切ると、細い山道に飛びこんだ。そのまま、ずんずんと坂を登っていく。坂上に対する恐怖より、その存在のつかめないことへの苛立ちのほうが強かった。  三十メートルも登ると、樒の木の下に着いた。私は、繁った葉の間から、絡み合う幹の下を覗きこんだ。  誰もいなかった。  なのに、どうしてだろう。今まで誰かそこに立っていたような気がした。  じくじくと湿った木の根本の窪《くぼ》みが、坂上の足跡に思える。やはりあの男は、さっきまでここにいたのではないか。この樒の木の下で、縁側に座る私たちを見つめていたのではないか。そして、菜穂が外出するのを知って、立ち去った。  だが、どうしてそれほど執拗《しつよう》に妹をつけまわすのか。なぜ、さっさと菜穂を奪い返さないのか。何か魂胆があるのだろうか……。  そこまで思って、私はぎょっとした。  ひょっとしたら、坂上の目的は菜穂だけではないかもしれない。浩一郎のことも、彼の意図に含まれているのではないか。  あの晩、浩一郎は、かなり強硬な手段で坂上を追いだしたはずだ。執念深いあの男は、夫を恨んでいることだろう。今度、戻ってくる時は、大阪の暴力団を連れてくるといっていた。二週間近くも何も行動に出ないのは、夫への報復の機会を狙《ねら》っているのだ。私たちの行動を探り、無防備な時を突いて、暴力団と一緒に殴りこむつもりではないだろうか。  そうなったら、どうしたらいいのだろう。いくら浩一郎でも、一人で大勢の男を相手にはできやしない。その時になって、警察を呼んでも遅いだろう。  私は唇を噛んで、腰を伸ばした。  頭が樒の枝にぶつかり、葉が揺れた。足許《あしもと》に、ぱらぱらと樒の実が落ちた。見上げると、星形の袋果はもう茶色に乾き、裂け目から黄褐色の種子が覗いている。黄色い歯を剥《む》きだして笑っている皺《しわ》だらけの老人の顔のようだ。小さな茶色の顔は、樒の枝という枝からぶら下がり、私を嘲笑《あざわら》っている。  樒の実は、悪しき実。  頭の中に、その言葉が蘇《よみがえ》った。  あたりには、樒の匂いがやけに強くたちこめていた。     五 「家に子供がおったら、どこもかしこも汚れること、汚れること。掃除がまた大変なんや。子の世話は、あんたらで終わりかと思うとったら、えらいまちがいやったわ。孫の後始末までせなあかんとはなぁ」  母がつらつらと文句をこぼしながら、雑巾《ぞうきん》で窓《まど》硝子《ガラス》を拭《ふ》いている。私は手持ち無沙汰《ぶさた》にその横に立って、苦笑いした。  御歳暮というほどでもないが、今年は林檎酒《りんごしゆ》がうまく作れたので、実家に届けに来たところだった。生憎《あいにく》、年末の大掃除の最中で、家の中はばたばたしていた。弟の義彦は正月用の注連飾《しめかざ》りを買いにいって不在だったが、弟の嫁の千賀子は台所の油汚れと格闘中で、母は廊下の窓拭きにいそしんでいた。  私が嫁いだ後の実家は、すっかり様相を変えていた。弟が結婚して、二人の子供が出来たことがその主な原因だった。家の中には、玩具や絵本を突っこんだ段ボール箱があちこちに置かれている。襖《ふすま》には落書きがあり、壁にはテレビで流行《はや》っている子供番組の主人公のカレンダーやシールがべたべたと貼《は》られている。  乳幼児が二人いるだけで、家の雰囲気はここまで雑然としてしまうのだ。私は子供がいなくてよかったと思い、同時に、浩一郎に対して後ろめたい気分になった。 「ああ、志野。来とったんか」  庭で声がして、裏口に通じる車庫のほうから一歳半の姪《めい》の薫を抱いた父が現れた。後ろを、三歳になる甥《おい》の保が三輪車に乗ってついてくる。近くに散歩に出ていたらしい。私は開いた硝子戸から顔を出した。 「うん。なんや、大騒ぎの時に来てしもうたみたいやけど」 「かまへん、かまへん。で、浩一郎も一緒か」 「それが仕事納めやゆうて……」  その時、父の手を保が引っ張った。 「お祖父《じい》ちゃん。三輪車、押して」  父は相好を崩して、保のほうを向いた。 「こら、保。まだ三輪車、乗るつもりか」  保は頷《うなず》いて、きいきいとペダルを踏みはじめた。父は、私に謝るように片手を挙げて、保の後を追った。腕に薫を抱え、がに股《また》になって、孫の背中を押してやる父の姿から目を逸《そ》らすと、私は母にいった。 「お父さん、定年になってから、保とばっかり遊んではるやないの」  母はちらりと庭の父を見遣り、また硝子拭きに戻った。 「そんでも、ああしてる間は、菜穂のこと、忘れてくれはるからええわ」  妹の名前が出てきたので、私は思わず身構えた。 「お父さん、まだ菜穂のこと、怒ってはるん」  母は渋い顔で頷いた。 「あたりまえやがな。この前、菜穂と一緒に暮しよった男が訪ねてきた、ゆうたやろ。あれ以来、菜穂の名前がちょっとでも出ただけで、あの子のことはいうな、と怒鳴らはるくらいやわ。それに悪いことに……」  母は、千賀子のいる台所のほうに用心深い視線を送ってから囁《ささや》いた。 「一昨日《おととい》、あの男のことで警察の人が来やったもんやよってな」  私は嫌な予感を覚えて、母に顔を近づけて聞いた。 「どういうことやの、警察て」 「実はな、あの坂上たらゆう男、借金をえろうこさえたまま、消えたらしいわ。お金、貸した人が捜索願いを出したんで捜してる、ゆうてたわ。それで、どこでどう調べたんか、うちまで訪ねてきてな、菜穂の居場所もあれこれ聞かれたわ。まあ、知らんものは知らんよって、どうしょうもなかったけどな」  母はきゅっきゅっと音が出るほど、力をこめて硝子を拭きながら続けた。 「おまけに警察の人が、あの男が暴力団ともつきあいがあるて話したもんで、もうあかん。菜穂ちゅうたら、そんな男と一緒やったんか、て、お父さん、またかんかんになってしもうてん。もう絶対に、この家の敷居を跨《また》がせへん、てゆうてはんのや」 「警察、うちにも来るやろか」  私は不安になって聞いた。これ以上、坂上のことで、夫を煩わせたくなかった。 「さあな。けど警察から、他の親戚のとこに、菜穂や坂上が身を寄せてることはないやろかて聞かれたさかい、そんなことはまずない、と答えといたけど。どっちにしろ警察は、坂上が関西をうろうろしてるとは思うてへんみたいやったで。なんでも、あの男、暴力団からもお金借りてて、それも返してないんやて。ほんで、暴力団のほうも坂上を捜しとって、見つかったら殺されるかもしれへんのやと。せやから逃げたんやったら、関東か、もっと別の地方やろ、て警察の人はゆうとったわ」  母の言葉を聞きながら、顔色が青ざめていくのがわかった。  坂上が行動に移らないのは、自分が追われているせいだったのだ。妹を無理に連れ戻しても、もう家には帰れない。かといって、菜穂のことも諦《あきら》められない。だから私たちの家の近くに隠れ住んで、追い詰められた獣のように山を徘徊《はいかい》しながら、これからどうしたらいいか考えているのだ。ひょっとしたら、菜穂や私たち夫婦を手づるにして、助かる方策を練っているのかもしれない。  警察に連絡したほうがいいだろうか。しかし、もしうまく警察が坂上を捕まえられなかったら、彼は私たちを逆恨みして、何をしでかすかわからない。 「けどなぁ、志野。菜穂、ほんまに坂上のところから逃げだしたんやろか。ほんまは、また元の鞘《さや》に収まって、あの男と一緒に逃げてんやないやろか」  母は私を振り向いて聞いた。黒目がちの瞳《ひとみ》を取り囲む細かな皺に苦渋が滲《にじ》んでいた。私はきっぱりといった。 「大丈夫やて。菜穂は、あの男と一緒なんかやあらへん」  母は、はっとしたように私の腕をつかんだ。 「あんた……ひょっとして、菜穂の行方、知ってんのやないか」  菜穂は、今、私の家にいる。喉元《のどもと》まで、その言葉が出かかった。  だが、私は首を横に振った。  母は私の腕から手を引くと、また窓を拭きはじめた。口をすぼめて硝子に吹きかける息が、大きなため息に見えた。  私は母を安心させようと、つけ加えた。 「菜穂のことや、ほとぼりの冷めた頃にけろっとして、家にもんてくるんやないの」  母は窓の汚れを睨《にら》みつけていった。 「そうなったかて、また同じことの繰り返しやろ。別のろくでもない男こさえて、家を飛びでてしまう。ほんま、あの子がもうちょっとあんたに似てしっかりしとったら、安心なんやけどなぁ」  私は、嬉しさと窮屈さの入り交じった気分を覚えた。  私は、幼い時から模範的な子だった。わがまま放題の妹ややんちゃな弟がいたために、おとなしい私はよけいに聞き分けのいい姉と見られた。妹や弟がだだをこねると、両親は決まって私を指さして、「志野姉ちゃんを見てみや。あんたらみたいなわがままはなんもゆうてへんやろ」と、戒めたものだった。私は、三人姉弟の中での自分の存在価値がそこにあることに早くから気がついていた。妹みたいに可愛《かわい》らしい顔でもないし、弟のように活発でもない。そんな私が、唯一誉めてもらえる長所といえば、聞き分けのよさでしかなかった。だから、妹や弟の手本となるように、子供の時から背伸びしてきた。  時々、弟や妹の存在がなかったら、私はどんな子になっていただろうと思う。今とは少し違った人間になっていた気がする。 「お祖母《ばあ》ちゃあん」  三輪車にのった保が、窓硝子を拭く母に近づいてきた。母の顔から、悲しげな表情が消えた。 「ああ、保。なんやのん」 「お祖父ちゃんが車でドライブに連れてったるてぇ」  プラスティックのスコップやバケツのなげ出された芝生を横切って、薫の手をひいた父がやってきた。 「わし、ちょっと、明日香村へんを回ってくるわ。志野も行っきょるか」  そろそろ家に帰らなくては、と答えると、父は寂しそうな声を出した。 「もう帰るんか」  私は腕時計を見た。三時を回っていた。 「うん。そろそろ、浩一郎さんももんてはる頃やと思うし」  家には、菜穂が一人、残っている。菜穂は、夕食の支度は自分がするから、実家でゆっくりしてくるといいといってくれたが、坂上のことを聞いて少し心配になっていた。 「ほな、車で駅まで送ってったるわ」  父がいうと、保が口を尖《とが》らせた。 「志野|伯母《おば》ちゃんも来るん?」 「途中までな。ちょっと乗せたってや、なっ」  孫の機嫌をとる父の顔を、私はまじまじと見つめた。  私たち子供には、決してこんな態度を示したことのない父だった。いつも厳《いか》めしく子供を寄せつけない雰囲気を持っていた。もし、今、手を繋いでいる姪《めい》が大きくなって、菜穂と同じ不祥事を犯したら、父はどうするだろう。娘の菜穂に対したように厳しい態度をとるだろうか。  いや、きっと父は、孫に対しては何でも許す甘い祖父の立場を貫くだろう。接する相手によって、人は何とちがってくることか。 「ええよ。乗せてったるわ、伯母ちゃん」  保が大人びた口調でいった。  父は骨ばった手で、保の頭を撫《な》ぜた。 「ほうか、ほうか。おおきに」  そして白髪頭を揺らせて、嗄《か》れた声で笑った。  父の車で駅前まで送ってもらい、私は路線バスに乗った。  窓辺に座って外を眺めると、通りは買物包みを抱えた人々で溢《あふ》れている。近づく正月に興奮するように、皆、目を輝かせている。おせち料理の材料らしい袋を両手で抱えた中年の女。忘年会に行くのか、華やかに笑いながら歩く若い男女の群れ。手を繋《つな》いで歩く家族連れ……。  ふと、家を出る間際の母の言葉が頭に蘇《よみがえ》ってきた。  ——もし、菜穂からなんか連絡があったら、こっちにもすぐ知らせてな。  気遣いのこもったその声に、再び妹の消息を隠していることへの罪悪感を感じた。  だけど私は、菜穂が生活を立て直すまでは、両親に何も知らせないでおこうと決めていた。今のままで父と会っても、また大喧嘩《おおげんか》になるだけだ。きちんとした就職先を見つけて、住まいも落ち着いてから、両親と会ったほうがいい。  ただ問題は、仕事口がなかなか決まらないことだった。週に二、三度は求人広告に応募して出かけていくのだが、いつも妹は腐って帰ってきた。待遇がちがっていたとか、社長の顔がいやらしそうだったとか、おもしろそうにない仕事だったとか、そのたびに理由はちがったが、要するに気にいらないのだ。  世の中、そんなに理想的な仕事が転がっているはずはない。私は妹にそういってやりたいが、うっかり意見して、ぷいと家から飛びでていかれると困る。特に最近の妹は情緒不安定だった。やけにはしゃいでいたかと思うと、急に黙りこんでしまう。そして不機嫌な顔で、髪を梳《と》かしたり、煙草をふかしたりしている。  もっとも坂上のことを考えると、無理ないとも思う。今も菜穂は、出先でよく坂上を見るといっていた。私も、あの男が裏の山にひそんで、じっとこちらを窺《うかが》っている気配を感じている。そうやって坂上は無言のまま、私たちの家に深い影を投げかけている。  バスは市街地を過ぎて、田圃《たんぼ》の中に続く県道をのんびり走っていく。周囲には、寒々とした冬の農村地帯が広がっている。吹きさらしの停留所に止まるごとに、乗客はまばらになってくる。 「ああ、すんまへん、降ります、降ります」  突然、前の座席から、しゃがれ声があがった。降車ボタンも押されてなかったので、そのまま停留所を通り過ぎようとしたバスがゆっくりと止まった。  褐色のコートを着た老婆が、杖《つえ》をついた夫を支えながら立ちあがり、降車口に向かった。二人がもつれ合うようにして降りると、バスは走りだした。  私は妙に心惹《こころひ》かれるものを覚えて、窓越しに老夫婦を振り返った。妻の手が夫の杖をついた手に重なり合っている。耳あて付きの帽子をかぶった老人が、老婆に何かいっていた。老婆はただ小さく頷《うなず》いている。その姿は、風雨にさらされて何百年も路傍に佇《たたず》む道祖神を思わせた。  私と浩一郎も、ああいうふうに老いていきたい。そんな思いに、胸を衝かれた。  歳を経るごとに、夫婦を繋ぐ絆《きずな》を強めていって、やがては最初から同じ石で彫られた道祖神像のように固く心を結び合わす。そうなれたら、どんなにいいだろう。お互いに対する優しさと慈しみが、だんだんと大きくなってきて最後にはひとつに溶け合うのだ。それこそ、人の得ることのできる最大の幸福ではないだろうか。愛している人と一体になることが。  私は膝《ひざ》の上で両手を組んだ。いつか、微笑《ほほえ》みが浮かんでいた。  バスが田圃に半島のように突きだした山際を曲がった。右手に私たちの家が見えた。二方を山に塞《ふさ》がれた家の周囲には、すでに淡い闇《やみ》が降りてきている。家に続く石段の下の車庫に、白い車が止まっていた。夫の車だ。もう帰宅しているらしかった。 「次は寺下、寺下」  バスのアナウンスが響いた。私は降車ボタンを押した。バスが速度を落として、停留所で止まった。  外に出ると、冷気が襲いかかってきた。私はコートの中で肩をすくめると、土産の柿の葉寿司の包みを持って、県道沿いに家に向かって歩きだした。  あと四日で正月だ。今年は菜穂もいるから、いつもとはちがった年明けになるだろう。明日には、おせち料理の買い出しに行くとしよう。煮豆に数の子。ごまめに、高野豆腐と棒だらの煮物。  正月料理の取り合わせを考えながら、山の斜面についた石段を登っていく。家の茶の間の電気が灯っている。夫はテレビでも観ているのだろうか。離れの電気もついているところを見ると、菜穂は部屋にいるようだ。  私は石段を登りきると、庭に入った。  洗濯物がまだ干されたままだ。妹に頼んでいたのに取りこむのを忘れたらしい。縁側には、座蒲団と開きっぱなしの雑誌が散らばっている。この調子では、夕食の用意もできてないにちがいない。私は撫然《ぶぜん》として、そのまま離れに歩いていった。  離れの窓のカーテンは半ば開いていた。中を覗《のぞ》きこんだ私は、おや、と思った。  夫と妹が向かい合っていた。菜穂が泣いているらしく、肩を震わせている。何かいっているようだが、言葉までは聞き取れない。夫が、妹の肩に手をかけて、顔を覗きこんだ。二人とも深刻な顔をしている。何を話しているのだろう。  私は、窓辺にさらに一歩、踏みだした。落ち葉の溜《た》まりに足がはまり、がさり、と乾いた音が響いた。  部屋の中の話し声が消えた。次の瞬間、窓が乱暴に開かれ、小さな目をぎょろぎょろさせた浩一郎の顔が突きだされた。  そして、私と向き合うことになって、拍子抜けしたように口をぽかんと開けた。 「なんや、志野か」  私はばつが悪くなって言い訳した。 「今、もんたとこやけど、菜穂、どないしてるかな思うて、覗きにきたんですわ」 「お姉ちゃんやの」  夫の横に菜穂の顔が現れた。髪は乱れて、目の下が赤くなっている。私は窓辺に近づいて聞いた。 「菜穂、どうかしたん」  菜穂は逡巡《しゆんじゆん》するような視線を浩一郎に送った。夫は口を一文字に結んでいる。菜穂は、うんざりした口調でいった。 「実は、今日、スーパーに買物に行ったらな、坂上がまた私の後をつけてきたんや」 「ほんま?」  菜穂は頷いた。 「警察に届け出たがええんやないやろか」  私が呟《つぶや》くと、夫が鼻先で笑った。 「後をつけられただけで警察に駆けこんだかて、取り合《お》うてくれるもんかいな」 「けど、あの坂上さんな、警察が捜してるんやて」  警察、という言葉に夫は驚いて、菜穂と顔を見合わせた。 「せや。なんでも借金をこさえて蒸発したらしい。警察も、暴力団も坂上を捜してんのやて」  私がさっき実家で聞いた話を伝えると、夫は考えるように顎《あご》を撫ぜた。 「そうか、あいつを暴力団が捜しとんのか……」 「見つかったら殺されるかもしれへんて」 「あんな人、殺されてくれたらええわ」  大きな声でいい放った菜穂の瞳《ひとみ》が、ぎらりと光った。私は、思わず妹を見返した。  そういえば、いらなくなったものを棄《す》てる時、妹はいつもこんな憎々しい目つきをしていた。まるでそのがらくた同然と化したものを持っていると、自分まで汚れてしまうとでもいうように指でつまんで投げ棄てていた。 「いくら腹立つゆうたかて、そんなぶっそうなこと、口に出すもんやないで」  私が諌《いさ》めると、妹は唇を歪《ゆが》めた。 「また、お姉ちゃんのお説教かいな」  そして菜穂はくるりと背を向けて、部屋から出ていった。  私と夫は硝子《ガラス》窓越しに顔を見合わせた。 「菜穂ちゃん、気が立ってるみたいやな」  夫は窓枠に手をかけながら、困惑した声でいった。 「こりゃあ、やっぱり警察には届けんほうがええで、志野。警察から、坂上のこと根掘り葉掘り聞かれたら、菜穂ちゃんの神経、ますます昂《たかぶ》りそうや」 「せやなぁ……」  夫は、せやせや、と応じて、窓の戸をがたんと閉めた。  私は、庭に一人、残された。  もう夕闇は足許《あしもと》に迫っている。私は土産の柿の葉寿司を持ったまま窓辺から離れると、湿った洗濯物を取りこみはじめた。     六  またたび酒が茜《あかね》色に変わっている。私は、棚に並べた七個の広口瓶をうっとりと眺めた。まるで、夕焼けを瓶詰めにしたみたいだ。実から滲《し》み出る成分をたっぷりと受け取って、無色透明の焼酎《しようちゆう》は、美しい色へと変貌《へんぼう》している。造った者でないと微妙な色の差はわからないだろうが、特に、左端の瓶が鮮やかな朱色を放っていた。  私は右端の瓶を両手で抱えて棚から降ろすと、台所のテーブルの上に置いた。  蓋《ふた》を開くと、ふくよかな匂いが漂い出てくる。玉杓子《たましやくし》ですくった液体を舌の先で舐《な》めると、ほんのり甘い、またたび酒の味が口の中に広がった。  我ながら満足のいく出来映えだった。私は独りで頷くと、流しの下の棚から笊《ざる》を取りだした。笊に布巾《ふきん》を広げて鍋の上に置いて、広口瓶を傾ける。茜色の液体が流れ出し、布巾に漉《こ》されて鍋へと滴り落ちていく。それをじっと見守りながら、私は毛糸のソックスを履いた足をこすり合わせた。  新年に入ってから、凍《い》てつくほどに寒い日が続いている。いくらストーブを焚《た》いても、台所は夜になると足許からじわじわと冷えてくる。流しの前の建てつけの悪い窓から隙間《すきま》風が入ってくるせいだ。私は窓のほうを睨《にら》み、そこに飾ってあった樒《しきみ》の枝が枯れかかっているのに気がついた。  樒の古木の下に煙草が落ちていたり、菜穂もそのあたりで坂上の姿を見たといいだしたりしたもので、最近では、樒を窓辺に飾る気持ちも薄れてしまっている。私は空になった広口瓶をテーブルに置くと、流しに行って枯れた樒を塵箱《ごみばこ》に棄てた。  ぱたん、と塵箱の蓋を閉めた時、茶の間から陽気な笑い声が響いてきた。 「ほんまなんやて、お義兄さん。そのお客さんゆうたら、床に、ずてんて転んでしもて……」  また、菜穂がスナックに勤めていた頃の思い出話をしているらしい。浩一郎もおかしそうに何か答えているが、テレビの音にかき消されて聞き取れない。  菜穂がこの家に来て、三か月近く過ぎていた。夫もすっかり義妹との同居生活に慣れたようだ。浩一郎は、もともと家族というものが好きな人だ。最近では、夕食後、妹を相手に酒を呑《の》みながら、賑《にぎ》やかに話をするのが楽しみになっている。会社の同僚と居酒屋に行くことも少なくなり、仕事が終わるとその足で家に帰ってくる。  もっとも、それは坂上のこともあるのだと思う。菜穂は相変わらず、外出のたびに坂上を見かけるといっていた。私も家の周囲に、人の気配を感じる。姿は見えないが、誰かが徘徊《はいかい》しているのは確かだ。風に飛ばされた洗濯物が、わざと踏まれたように泥まみれになっていたり、誰かが通りすがりに引っかけたらしく、花壇の薔薇《ばら》の枝が折れていたりする。そんなことをいうと、夫は当惑した顔をするだけだが、内心では、やはり気にかけているのだろう。  萎《しな》びたまたたびの実が最後の一滴まで水分を落とすのを待って、私は布巾ごと笊を持ち上げた。鍋には、澄んだまたたび酒が溜まっている。布巾で漉しても、表面にはまだ粟粒《あわつぶ》の半分ほどのまたたび油虫の幼虫の死骸《しがい》が浮かんでいる。次に漏斗《じようご》を一升瓶の口にあてて、鍋に落ちた酒を注いだ。鍋が空になると、ちょうど一升瓶はいっぱいになった。私は布巾で瓶の肌を拭《ふ》いて、またたび酒を茶の間に持っていった。  浩一郎と菜穂は炬燵《こたつ》に入って、ちびちびと日本酒を呑んでいた。二人ともすでに風呂に入った後で、寝巻き姿だ。菜穂は長い髪を後ろで緩くまとめている。晩酌の酒が回ったのか、少し顔が赤い。  私は夫の横に座って、一升瓶を炬燵の上にどんと置いた。 「できましたで」  夫は、ほう、そうか、といって身を乗りだした。 「こら、うまそうな色やな」  菜穂が鼻の頭に皺を寄せた。 「それって、ごきぶりが入ってんやろ」 「ごきぶりやないよ。またたび油虫」  私は妹を睨んだ。 「やっぱり油虫やないの」  小声でいう菜穂に、夫が一升瓶を差しだした。 「またたび酒はな、その虫のおかげでうまいんや。ほら、菜穂ちゃん。呑んでみんか」  菜穂は頭を横に振った。しかし夫は有無をいわさず、さっきまで日本酒の入っていた菜穂の杯《さかずき》にまたたび酒を注いだ。 「今さら尻込《しりご》みしたかて、もう遅いわ。この前も呑んだやないか」  夫は自分の杯も、またたび酒で満たすと、私にも、呑むか、と聞くように、一升瓶を持ちあげた。 「いえ、私、もう味見をしましたよってに」  酒はそんなに強くない私は答えた。  夫は一升瓶を脇《わき》に置くと、杯を傾けた。そして口をすぼめて、舌を鳴らした。 「こら、うまいわ」 「ほんまですか」  私は顔を輝かせた。夫は何度も頷《うなず》いて、菜穂にいった。 「菜穂ちゃん、どうや」  妹は渋々というふうに杯を舐めてから、小首を傾げた。 「この前、呑んだんより、おいしい気ぃするわ」 「うん。うまい、うまい」  夫は一升瓶をつかむと、また菜穂と自分の杯にまたたび酒を注いだ。 「菜穂ちゃんが酒、強いよって、ついつい俺も一緒になって呑んでしまうわ」 「あら、お義兄さん。自分が大酒呑みなんを私のせいにせんといてぇな」 「そら、悪かったな」  夫は笑顔を見せた。四角ばった顔が、嬉《うれ》しそうに輝いている。口許《くちもと》にえくぼが出来ていた。この人、笑うとこんなに愛嬌《あいきよう》のある顔になったんだ。私は、夫の顔を眩《まぶ》しい気持ちで眺めた。  菜穂が桜色の指で杯を撫ぜた。 「私、またたび酒も好きになりそうや」 「ええ加減にしときなさいよ、菜穂。お酒ばかり呑んでたら、体に悪いで」  菜穂は頬《ほお》を膨らませて、横目で私を見た。 「煩《うるさ》いなぁ。いちいち」  私はむっとしていった。 「あんたのためを思うて、ゆうてんやないの」  志野、と夫が太い声を出した。 「姉妹喧嘩《きようだいげんか》はなしやぞ」  夫は自分の弟たちとも滅多に口論もしない。喧嘩をするくらいなら、何でもいうことを聞いてやったほうがいいと日頃からいっている。  私は口を噤《つぐ》んで炬燵に入った。  菜穂は、見せびらかすように勢いよくまたたび酒を呑み干した。私は胸の底に溜まる怒りを忘れようと、話題を変えた。 「またたび酒は、冷え症にええんやて」 「そうなん?」  妹が長い睫毛《まつげ》を上げた。 「お義兄さんは、男の人にええいわはってたけど」  夫がにやにやして、また一升瓶を突きだした。 「せやで。またたびゆうたら、猫が踊りだすくらいやさかい、元気が出る薬てのは確かや。まあ、もっと呑んだらわかるて」 「ほんまかいな」  菜穂は含み笑いしながら、新たに注がれた杯をあおいだ。ほっそりした喉《のど》が蛇の腹のように動く。妹はふうっと息を吐いて、頭を振った。後ろでまとめていた長い黒髪が肩に崩れ落ちた。 「せやな、なんや体が燃えるみたいや」  菜穂の瞳がぬめりと光った。 「お義兄さんは、これ毎晩、呑んで、お姉ちゃんと蒲団《ふとん》に入るんやな」  夫は、ばつが悪そうに目を伏せた。 「菜穂、変なことはいわんといて」  むきになっていう私に、菜穂はにやっとして唇を舌で舐めた。 「あら、夫婦のことや。一緒に蒲団に入って寝るんが、どこが変なことやの」  私は言葉に窮した。実は菜穂が居候するようになって以来、離れに聞こえるのではないかとの気兼ねから、夫との交わりはなくなっている。だが、そんなことは知らない妹は、おもしろがって問い詰める。 「なあ、お姉ちゃん。またたび酒呑んだら、やっぱりお義兄さん、あっちのほうも元気になる?」 「知らんわっ」  私は立ちあがると、台所に戻って障子を閉めた。菜穂の笑い声があがった。 「菜穂ちゃん、そんなに志野を苛《いじ》めんといてや」  夫の声がしたが、義理の妹に遠慮しているのか、あやすような口調だった。 「お姉ちゃん、あんまし堅物やよって、ついからかいとうなんのや」  妹の弁解を聞き流して、私は棚から、またたびの実の沈んだ広口瓶を降ろして、再び笊に置いた布巾で漉《こ》しはじめた。茜色の液体が、電灯の光をきらきらと反射させながら鍋に落ちていく。  茶の間からは、妹の声が続いている。 「お姉ちゃんの堅物ぶりと、私のちゃらんぽらんなとこ、足して二で割ったら、ちょうどの性格になるかもしれへんな」 「やめとけ、やめとけ。つまらん性格になるだけやで」 「そうかなぁ」  二人は同時に笑いだした。何がそれほどおかしいのか、声はだんだん大きくなってくる。その笑い声を聞きながら、私は慎重に布で漉したまたたび酒を一升瓶に移し替えていく。瓶に注がれる茜色の液体は、私の愛情だ。何年も育んできた、夫への愛の結晶。一滴でも零《こぼ》したくはない。  いっぱいになった一升瓶に蓋《ふた》をすると、棚のところに戻って、次の広口瓶を降ろす。そして、また布巾で漉しはじめた。  どうせ私は堅物だ。菜穂のように、夫と軽い冗談をいい合うこともできない。だからこそ、こうして私は果実酒を造る。夫の体に流れこむ酒を心をこめて造りあげる。口下手な私は、こんな形で愛情を表すしか術《すべ》がない。だけど浩一郎は、そのことをわかってくれているはずだ。素顔のままの私でいい、といってくれた人だから。  菜穂の笑い声がまだ続いていた。甲高い、うすっぺらな笑い。あの妹には想像もできないだろう。夫がまたたび酒を呑む時、同時に私の心を呑んでいるのだということを。またたび酒を通して、私の愛は夫の体に流れこみ、彼の血と混ざり合う。それは冗談をいって笑うより、いや、肉の交わりなどよりも数百倍、数千倍も濃い心の交わりなのだ。  私は棚の左端に残った果実酒の瓶に手を伸ばした。昨年漬けた酒は全部で七升。一升瓶を二か月で呑めば、一年もつ。最後に残る一本は、特別の時のためだ。  笊に洗った布巾を広げて鍋に置いて、広口瓶を空ける。とろりとした液体が血の川のように流れ落ちる。少しひらべったい実が、布の上に残っていく。米粒ほどの種が袋から出てきていた。それを見ていると、ふと、坂上のことが頭を過《よぎ》った。  あの男が菜穂に執着するのは、心の交わりを求めてのことではないか。情欲だけで繋《つな》がっていたなら、さっさと別の女に乗り替えたはずだ。  だが菜穂は、坂上が求めるような愛を与えられる女ではない。妹にとって、人は単に好きか嫌いかでしかない。それより深い感情に踏みこむには、自分を大事にしすぎるのだ。考えてみれば、坂上もかわいそうな男かもしれない。得られることのない妹の心を求めてしまった。  その時、勝手口の戸を叩《たた》く小さな音が聞こえた。  私は、広口瓶をテーブルに置いた。  とん……とん……とん。  微かな音は続いている。風だろうか。それとも誰かが訪ねてきたのだろうか。  私は前掛けで手を拭きながら、勝手口の前に立った。一息おいて、そっと戸を押した。  冷たい風が吹きこんできた。その風の中に黒い影が見えた。彫りの深い白い顔だけがくっきりと浮きあがっている。坂上だ。茶色の革のジャンパーの肩をすくめて、ぽつんと立っていた。半ば伏せられていた瞼《まぶた》が上がり、黒い瞳《ひとみ》が私を捉《とら》えた。あまりに暗い目つきだった。絶望的な悲しみと、怒りの混ざった視線。  私の体が凍りついた。次の瞬間、坂上の姿は、ふっと庭の闇《やみ》に消えた。 「あ……ああ……」  言葉にならない声の後から、悲鳴がこぼれ出た。 「どうしたんやっ、志野っ」  茶の間から夫が飛びでてきた。私は開いたままの勝手口の戸によりかかって、外を指さした。 「さ、坂上が、今そこに……」  夫は眉《まゆ》をひそめて、勝手口から裏庭に出ていった。がさっ、がさっ。庭の枯れ葉を踏む音が響く。 「誰もおらへんで」  暗闇から夫の声が返ってきた。 「せやかて、ほんまに、私、坂上を見たんや……」 「見まちがいに決まっとるわ。おお寒む」  夫が肩を震わせながら、台所に走り戻ってきた。 「もう、お姉ちゃんゆうたら、おどかさんといてぇな」  茶の間から首だけ出して、菜穂がなじった。浩一郎は、妹の脇を擦りぬけて、炬燵《こたつ》にもぐりこんだ。  私は、まだ腑《ふ》に落ちない気分で勝手口から首を出して、きょろきょろした。風が裏山の木々を揺らしている。しかし、どんなに目を凝らしても、庭には誰の姿も無かった。  だが、坂上はそこに確かにいたのだ。夜の闇から、救いのない暗い視線をじっとこの家に注いでいた。  ごうごうごおおおっ。風が唸《うな》っていた。それが坂上の怒りの声に聞こえて、私は寒気を覚えた。勝手口の戸を閉めようとした時、戸口の床に濃い緑色の葉が、三、四枚、落ちているのに気がついた。  樒《しきみ》の葉だった。  まだ、ちぎれたばかりの瑞々《みずみず》しい葉。あたりには、樒の微かな芳香が漂っている。  私は、匂《にお》いを断ちきるように戸を閉めた。そして再び台所のテーブルに戻ると、七本目の一升瓶に茜《あかね》色の液体を注ぎはじめた。     七  一昨日《おととい》、降った雪が、周囲の山の木々をうっすら白く染めあげている。灰色の空から弱い光が射してきているとはいえ、今日も寒い日になりそうだった。  私は夫のシャツを洗濯籠《かご》から拾いあげて、物干し竿《ざお》にかけた。  冬場の家は、どこか廃屋に近い雰囲気が漂っている。軒下には掃き残した木の葉が転がり、窓《まど》硝子《ガラス》は屋内の湿気で曇っている。秋には見事な黄色い薔薇の花を咲かせていた花壇も枯れてしまっていた。どんなに手を加えても、冬の家はとりつくしまがない。頑《かたく》なに温かな顔を見せるのを拒んでいる。  こんな状態の家は、私自身に似ていると思う。夫にすら、肩の力を抜いて接することができない私に……。  私は物干し竿にかけた夫のシャツの裾を、ぱんぱんと引っ張った。濡れたシャツから滲《し》みこんできた冷気で手の先がかじかむ。私は赤くなった指先に息を吹きかけた。  縁側のほうから、笑い声が聞こえた。今日は建国記念日で仕事も休みだ。朝食が終わっても、夫は菜穂と炬燵に入ったまま、何やら楽しそうに話している。私はプラスティツクの籠の中から次の洗濯物を拾いながら、縁側と茶の間を隔てる障子を見遣《みや》った。  二月に入ったというのに、菜穂の就職口はまだ見つからない。昨日も面接に行ったが、「やっぱ、あかんわ」といって帰ってきた。だが、別に焦るでもなく、毎朝、呑気《のんき》に新聞の折り込みの求人広告を眺めている。週に二、三日は面接に出かけていくが、採用された例はない。  いったい本気で就職するつもりがあるのだろうか。さすがに私も苛立《いらだ》ちを覚えはじめていた。しかし夫は相変わらず鷹揚《おうよう》に構えている。私が妹の生活費まで夫に出させるのは心苦しいといっても、「兄貴が妹の面倒《めんどう》見てあたりまえやないか」と答えるだけだ。どうやら、夫は妹に小遣いまで渡しているらしい。夫だって、そんなに給料のいいほうではない。妹を抱えこんだために、新年に入ってから、家計は貯蓄をする余裕もなくなっている。銀行の貯蓄残高と家計簿を見比べて、私が頭を悩ましていることに、夫も妹も無頓着《むとんじやく》だ。  籠の中を探っていた手が柔らかなものに触れた。菜穂の絹の下着だった。私は、それを取りあげて、洗濯物ハンガーに吊《つ》るした。黒いレースの縁取りのあるパンティだ。妹は面接の日になると、念入りに身支度を整える。まるで面接は、菜穂にとって唯一の娯楽になってしまったようだった。  ひょっとしたら面接というのは、私や夫に対する口実で、実はただ遊びに出かけているだけではないか。そんな疑いが胸に浮かんだ。ほんとうは真面目に就職するつもりもなく、このままぶらぶら遊び暮らしていたいだけかもしれない。  一度、妹にどういうつもりか問い詰めてみたほうがいいだろうか。しかし、そうしたら、きっと大喧嘩になるだろう。  思い惑いながら、地面に目を落とした私はぎくりとした。雪の残った庭の隅の日陰に、足跡があった。男のものだ。誰かじっと立っていたらしい二つ並んだ足跡。  私の頭に坂上の姿が閃《ひらめ》いた。  あの男が、ここに来ていたのだ。  昨夜だろうか、今朝だろうか。黙ってここに立って、家を見つめていたのだ。あの茶色の革のジャンパーを着て、冷たい空気の中で白い息を吐きながら……。  私は洗濯物を投げだして、縁側に走った。もどかしい思いで硝子戸を開き、体を伸ばして茶の間の障子を横に引いた。 「浩一郎さんっ、ちょっと来てくださいっ」  炬燵にはいっていた浩一郎が、怪訝《けげん》な顔をこちらに向けた。私は庭を指さした。 「坂上やわ。坂上がここに来たんです。庭に足跡があるんや」 「まさか」  浩一郎は苦笑した。菜穂が、夫の腕を揺すった。 「わからへんで。ほんまに坂上かもしれんで」  浩一郎は疑わしそうに妹を横目で見たが、それでものそりと立ちあがった。そして縁側のつっかけを履いて、菜穂と一緒に外に出てきた。  私は二人を庭の隅に連れていった。ちょうど樒の古木のある西の山が庭に接する場所だ。そこだけ薄く残った雪の上に、二つの足跡だけが刻印されていた。山から出てきた足の先は、菜穂の寝起きする離れに向いている。私はそれを指さした。 「ほら、これ、浩一郎さんの足跡とはちがいますやろ」  夫は、足跡にかがみこんだ。菜穂も恐る恐る横から覗《のぞ》いている。夫は呻《うめ》いた。 「ほんまや……」  菜穂が甲高い声をあげた。 「いやや。ほな、坂上がこのへんに来とったん」  私たちはあたりを見回した。雪化粧をした山がやけに大きく見えた。寒気がその山肌を滑り落ちてきたように、急に空気が冷たくなった。  浩一郎は、足跡をつっかけの先で踏みにじった。 「心配すること、あらへん。坂上が来たら、警察に突きだしたるだけや」  夫は縁側のほうに戻りながら怒鳴った。 「ああ、せっかくの休みの気分が壊れてもた。志野、またたび酒、出してくれや。験《げん》直しや」 「ああ、それがええわ」  菜穂がいって、夫の後に従った。私も家に歩きかけて、あたりに漂う仄《ほの》かな芳香に気がついた。樒の匂いだ。私はもう一度、地面を見下ろした。夫に踏みにじられた雪の上の足跡は、大地に残された不吉な前兆のように思えた。 「志野っ、またたび酒やっ」  縁側から夫の声があがった。 「あ、はーい」  私は慌てて家に走っていった。  台所の棚からまたたび酒の入った一升瓶を降ろして、グラスと一緒に茶の間に持っていった。  茶の間は、むっとするほどに暑かった。炬燵の横でストーブが燃え盛っている。菜穂は炬燵に腰から下をつっこんで横になり、新聞をめくっている。私の手縫いの座蒲団が、二つ折りにされて、クッション代わりになっていた。その横で夫はあぐらをかいて、テレビを観ている。  私は炬燵の上に一升瓶とグラスを置いた。 「もう、ちょっとしかあらへんけど」  夫は、瓶の底に残った僅《わず》かなまたたび酒を振って、あきれたようにいった。 「なんや、もう一升、空けてしもうたんか」 「私も今さっき見て、びっくりしましたわ。考えてみたら、当然やな。二人して晩酌ごとに呑んでんやものな」  私は夫と妹に非難の混じった視線を送った。菜穂はにやにや笑いながら起きあがって、夫の手から一升瓶を取った。 「せやけど、これ、癖になる味ねんや」  菜穂は二つのグラスに酒を注いで、ひとつを夫のほうに押し遣った。 「なんやの。はじめは、またたび油虫が気持ち悪い、ゆうてたくせして」  菜穂は自分のグラスの表面に浮いている白い幼虫を眺めた。 「人の好みは変わるもの」  歌うように呟くと、唇をグラスの縁にぺたりと吸いつけて、酒を啜《すす》った。妹の様子を目を細めて見ていた夫は、自分も酒をあおると、満足気にいった。 「また、人間、そうでないとあかんしな。好みが変わらへんかったら、いつまでも同じもんしか食べられへん。つまらんこっちゃ」  夫は一升瓶を逆さにして、再びグラスにまたたび酒を注いだ。それで、瓶の中身はなくなってしまった。 「この調子やったら、去年に漬けたまたたび酒も、あっという間にのうなりますな」  私の言葉に、夫は顔をしかめた。 「おい、菜穂。おまえ、ちょっとは遠慮しろや」  菜穂は、夫の膝《ひざ》をぱんと叩いた。 「お義兄さんかて、控えたらええやんか」  二人は馴《な》れ馴《な》れしくいい合っている。私は空になった一升瓶を持って、台所に戻った。  流しで水道の蛇口をひねる。ぼっと音がして、瞬間湯沸かし器に火が灯る。一升瓶を湯で洗いながら、酒を呑みだしたら、先の坂上の足跡のことをけろりと忘れてしまったらしい夫と妹の気持ちがわからなくなった。  あの二人は怖くないのだろうか。暗い庭の片隅から、この家を見つめていた坂上が。もう四か月近く、家の回りに出没しているだけの彼の行動は、私にはひどく不気味に思える。何かとんでもない復讐《ふくしゆう》をもくろんでいるのではないだろうか。  あの男は危険だ。  最初、坂上を見た時に感じたことが、また頭に浮かんだ。  ステンレスの流しを束子《たわし》で洗っていた私の視線が、台所の壁の棚で止まった。黄色や赤に染まった硝子瓶が、昼の光に輝いている。棚の中でも目立つところに、『またたび酒』という紙を貼《は》りつけた一升瓶がずらりと並んでいる。  すでに一本はなくなり、棚には六本しか残ってない。この調子では、去年造ったまたたび酒は、半年もしないうちに最後の一本に達してしまいそうだ。  左端に置かれた茜色をした一升瓶を眺めた。中に詰まっている液体が、透明な血のように見えた。  私は寝室に行ってコートとマフラーを取った。外出の支度を整えて、茶の間に顔を出すと、夫は自分で台所から日本酒を持ってきて、菜穂を相手にコップで冷や酒を呑んでいた。 「浩一郎さん。私、ちょっと山に行ってきます」  夫は意外な顔で、山へか、と聞き返した。 「はい、去年のまたたびの実、ひょっとしてまだ残ってるかもしれへんよって。地面に落ちているものでもなんでも手に入ったら、それでまた、ちょっとでもまたたび酒を造れますやろ」  菜穂が乾杯する真似して、杯《さかずき》を私に向かって掲げた。 「そら、ええ考えや。頼むわ、お姉ちゃん」  少し酔ったのか、目が潤んでいる。私は妹から目を逸《そ》らすと、「行ってきます」と告げて、勝手口から外に出た。  肌に切りこむ冷たい風を受けて、裏の山道を登っていく。幹の後ろや雑草の根本に、白い影のような雪が残っている。雪融け水で、地面はじくじく湿っている。私は灰色の空を見上げて、首のマフラーをしっかりと巻き直すと、滑らないように一歩、一歩、斜面を進んでいった。  足許に私たちの家が見下ろせるようになった頃、心地よい香りが鼻をくすぐった。  木蓮《もくれん》に似た、爽《さわ》やかで甘い香りだ。私は足を止めた。この季節に咲く、こんな匂いのする花があっただろうか。  私は、その香りに誘われて歩きだした。枯れた草を踏みしめて、ゆっくりと坂道を進んでいく。  やがて正面に、樒《きしみ》の巨木が現れた。生い茂る常緑の葉のあちこちにまだ雪が残っている、と思った時、それが雪ではないことに気がついた。  花だった。その樒の枝の先に、親指の先ほどの可憐《かれん》な花がびっしりと咲いている。淡い黄色がかった短冊形の白い花びらは、蝋《ろう》のような鈍い光沢を放っていた。  樒の花だ。この花が咲くのは、初夏のはずだ。いったいどうしたというのだろう。  喉《のど》を締めつけられるほどの甘い香りに眩暈《めまい》を覚えながら、私は狂い咲きする樒の木に近づいていった。  樒は、この前見た時よりも生長したようだった。黒っぽい根が勢いよく大地につかみかかり、捩《ねじ》れた枝はさらに四方に広がっている。私は不思議な気分で、樒の大樹の下に立った。  頭上で揺れる葉が囁《ささや》き声をたてていた。風花に似た白い花びらがひらひらと舞い落ちる。ここから家がよく見えた。私は甘い香りと、木の葉のざわめきに包まれて、しばし呆然《ぼうぜん》と家を眺めていた。  坂上も、こうして家を見つめていたのだ。そして樒の匂いを体に滲《し》みこませ、足音を忍ばせて家の庭に降りてきたのだ。  首筋に、ふうっと生暖かい息が吹きかかった。坂上の気配を感じた。背中が、とんと叩《たた》かれた。  私は振り返った。  誰もいなかった。  風に樒の枝が揺れている。私の背中を触ったのは、その枝だった。  ほっとして、背後の枝を払った時、その下の地面が見えた。土の間に茶色のものが露出している。私は近づいていくと、腰をかがめた。  革の一部だった。服の腕の部分のようだ。革のジャンパーらしい。坂上が着ていたものにそっくりだが、袖口《そでぐち》のあたりはびりびりに破れている。指でつまんで引っ張ってみると、中に何か入っているのか重かった。力をこめると、土の中から大きな塊が持ちあがった。革の引き裂ける音がしたと思うと、樒の芳香の底から毒のある強い臭いが広がった。猛烈な悪臭に、私は破れたジャンパーの袖を放りだした。そして地面に視線を戻して、ぎょっとした。  革のジャンパーの破れ目から、白いものが覗いていた。  骨だった。腐りかけた肉がこびりついている。腕の骨のようだ。先のほうは、野犬に喰《く》われたらしい。残った上腕部には、びっしりと蛆《うじ》がたかっていた。  この下には人が埋まっているのだ。この革のジャンパーを着た人間といえば、坂上以外、考えられない。  私は近くの樒の幹にすがりついた。  坂上は死んでいたというのか。では、私が感じていた坂上の気配は何だったのか。暗闇《くらやみ》に浮かびあがった坂上の顔や、庭についていた足跡は、どういうわけなのだ。  頭が混乱して、考えがまとまらない。  ちぎれた腕が地面から突きでている。まるで蘇《よみがえ》った死体が土をかき分けて外にもがき出ようとしていたみたいだ。  坂上の死体は、ほんとうに動きまわっていたのかもしれない。そして朝に晩に、私の家の周囲を徘徊《はいかい》していたのだ……。  私は震えながら後ずさりした。樒の根が、死体の埋まったところを抱き抱えている。その上では可憐な花が狂い咲いている。  私は口を大きく開けた。甘ったるい樒の花の香りと、死体の腐臭が混ざって、喉に流れこんできた。吐気がこみあげてきた。 「ああああ……」  喉の奥から、呻《うめ》き声が零《こぼ》れ出た。声を出したとたん、恐怖に縛りつけられていた体が動きだした。私は山道を転げ降りて、家の庭を横切り、勝手口の戸に走り寄った。  把っ手を引こうとした時、 「うふふふっ。好きよぉ、お義兄さん」  菜穂の声が耳に飛びこんできた。  動転していた私だったが、好きよ、という言葉が、ひやりと胸の底を撫《な》ぜた。 「お義兄さんはやめろや」  浩一郎の声が聞こえる。私は、そっと勝手口の戸を開いた。  閉ざされた茶の間の障子の向こうから、人の揉《も》み合う物音が洩《も》れてくる。 「今に、お姉ちゃんが帰ってくるかもしれへんで」  喘《あえ》ぐような息づかいで妹がいう。 「なに、あいつは一遍、山に行きよったら、一時間や二時間は帰ってきいへんわ」 「けど、家の中ではやめといたがええよ。こんなことするんは、私が就職の面接に行くゆうて家を出る時だけにしとかへんと……」 「ええ、ええ。志野はほんまのことはなんも気ぃつかへん。坂上を見たゆう、おまえの嘘かて、こっとり騙《だま》されて、今じゃなんでも坂上に見えるんやさかい」 「びっくりしたわ。雪融けの穴まで、坂上の足跡や、いい出すんやもんな」  二人の笑い声が絡み合う。 「あいつは不感症なんや。なんもわからへん」  服のこすれる音が大きくなる。妹の押し殺した吐息が聞こえる。  私は唾《つば》を呑《の》みこんだ。頤《おとがい》のつけ根がどくんと波打った。その波に押されるように、障子を力いっぱい開け放った。  そこに夫と妹が重なり合っていた。仰向けになった菜穂のセーターは首まで上げられ、乳房が剥《む》きだしになっている。夫の唇がその乳房を吸っていた。二人は一斉に私を見て、弾かれたように上半身を起こした。  菜穂が慌ててセーターを引っ張りおろした。夫は私から顔を背けて、あぐらをかいた。 「あんたら、こんなことして……こんなことして……」  私はかすれ声でいった。喉が膨れあがり、思うように言葉が出ない。  夫は苦りきった顔で天井を睨《にら》みつけた。  私は茶の間に足を踏み入れた。むっとくる熱気に、酒の匂いが漂っている。私は仁王立ちになって、二人に叫んだ。 「なんとかゆうたらどうなんや。あんたら、私の見えんところで、こんな厭《いや》らしいことして……」  菜穂がくいっと頭を上げて私を見返すと、浩一郎の膝《ひざ》に寄りかかった。 「しょうがあらへん。私、浩一郎さんが好きになったんやもん。こんな頼りになる人、今まで私の周りにはおらへんかったんや」 「あんた、坂上を棄《す》てたらすぐに、浩一郎さんまで……」  ここまでいって、土に埋まっていた坂上の死体を思い出した。それと同時に、先の二人の会話が頭に響いた。「坂上を見たゆう、おまえの嘘」と、浩一郎はいっていた。  ということは、菜穂は坂上が死んでいることを知っていたのだ。  私は、夫に寄りそう妹に聞いた。 「あんた……坂上を殺したんか」  菜穂はびくっと肩を震わせた。そして引きつった笑いを浮かべた。 「まさか。なに、ゆうてんの、お姉ちゃん」 「さっき樒の木の下で、坂上の死体、見つけたわ」  菜穂の顔がこわばり、横目で素早く夫を流し見た。私は、はっとして、夫を振り向いた。 「あんたも関わってんの?」  浩一郎はちっと舌打ちをして、あぐらを組み直した。私は、夫の前に崩れ落ちた。そして畳の上に両手をついて、顔を上げた。 「いったい、どういうことやの」  浩一郎は私の視線を避けながら、低い声で答えた。 「坂上は俺が殺したんや」 「なんやてっ」 「あの晩、あんまり生意気なことゆうたさかい、ついかっとして首絞めてしもうて……。気ぃついた時には、もう息してへんかった。おまえが外に出て行っとった時やった。せやから、一旦《いつたん》、縁側の下に死体を隠して、次の日に、あの樒の木の根本に埋めたんや」  夫は炬燵《こたつ》の上に置いてあったコップに手を伸ばして、少し残っていた日本酒を呑み干した。そして、ずんぐりした指で空のコップを玩《もてあそ》びながら続けた。 「樒は死人の木。あの強い匂いで、死体の臭いも消してくれるゆうさかいな。そいで、菜穂に坂上を見たと嘘ついてもろて、あいつがまだ生きとるふりしたんや。坂上は暴力団に追われて蒸発したいわれてると聞いたよって、このまま二度と現れへんでも、警察も不思議には思わへんはずや。なあ、志野、あの死体を見たことは忘れてくれ。それでなんもかも丸う収まんのやさかい……」 「丸う収まる、やて。菜穂とそんな関係になって、どこが丸う収まるんや」  浩一郎は困った顔になって、コップを放した。 「俺かて、こんなことになるとは思わんかった。ただ、二人で坂上の死体をどうしようかて話し合うてる間に、つい……」  いつか私の目に涙が溢《あふ》れていた。  夫が坂上を殺したことよりも、妹と密通していた事実のほうが、私を打ちのめした。 「どうして私にも相談してくれんかったん。私ら夫婦やないの」 「おまえに心配をかけとうなかったんや。せやから、俺らでなんとかしようて考えたんや。それが……」  夫は自分の膝の上に置かれた菜穂の手を見つめた。菜穂が私にいった。 「なぁ、お姉ちゃん。私ら、もう好き合うてんよ」  妹は私と夫の間を阻もうとするように、二人の間ににじり出てきた。 「今度こそ本気なんや。私には、こんな強い人が必要なんやて、やっとわかってん。浩一郎さんと一緒やったら、私、生き方、変えられそうな気がする」  夫が横からいった。 「なあ、志野。おまえはしっかりした女や。一人でもちゃんとやっていける。けど、菜穂は俺がおらんとあかんのや」 「私が……しっかりした女やて……」  私は夫を見返した。涙が鼻の先に滴って、畳に落ちた。 「きちんと生きてることが、そうしようと努力してることが、しっかりした女ゆうことやの。そんな女には男はいらへん、菜穂みたいに、好き勝手に人の迷惑も考えんで生きてる女は頼りないさかい、あんたが必要や、そういうん?」  夫は口ごもり、顔を伏せた。私は畳に爪を立てて、やっとの思いでいい放った。 「私かて強い女やあらへん。せやけど、あんたの気を煩わせんようにしよう、しっかりせなあかん、そう思うて努力してきただけや。私かて他の誰より、あんたが必要なんや」  菜穂が私の前に顔を突きだした。 「お姉ちゃん、もうなにゆうても無駄や。浩一郎さんはな、私と一緒におりたいんや。私と一緒のほうがええんやと」 「嘘やっ」  私は妹を押しのけて、夫にすがりついた。 「私、一生懸命、やってきたやない。あんたのために、この家をきれいにして、果実酒も造った。あんたのしたいことはなんでもさせたげた。文句ひとついわんで、なんでもやってきたやないの」  浩一郎は小さな目をしきりに瞬かせて、肩に取りついた私の手をはずした。そして、後ろめたそうな口振りでいった。 「悪いけど、志野、俺、おまえと一緒におっても、ちっとも楽しゅうないんや」  私の全身が凍りついた。 「楽しゅうない、て。私は楽しかった。あんたのためにやったげること、皆、楽しかったのに。あんたは私と一緒におってつまらんかったて、そういうのか……」  体から力が抜けていく。私は夫との生活に愛情を注いでいた。彼もそれがわかっているものと信じていた。なのに、それは私の思いこみに過ぎなかったのだ。 「ほな、浩一郎さん。あんた、どうして私と結婚したん。私のこと、好きやったからやないの」 「そら、好きやった。お袋みたいに、俺にはようしてくれたと思う。せやけど……」  あぐらをかいた夫は上半身を揺らせた。 「菜穂と会うてから、わかったんや。一緒におって、心から楽しい気持ちにさせてくれる女がおるんや、ゆうことが……」 「なんて勝手な……」  私は背中を丸めて、両手で顔を覆った。涙がとめどなく流れる。悲しみと絶望が毛穴という毛穴から噴きでてくる。 「志野……」  背中に夫の声がした。 「なあ、もっと他に、おまえにぴったりの男がおると思う」 「せやよ、お姉ちゃん。私のために浩一郎さんは諦《あきら》めてぇな」  妹の甲高い声の響きが、心の内壁をぴいんと弾いた。棄てられた悲しさ、悔しさが、怒りへと変貌《へんぼう》した。  私は鼻を啜《すす》りあげると、涙を指先で拭《ふ》いた。背筋を伸ばして、妹と向き合った。 「あんたは昔からそうやった。人のもんでもなんでも、欲しゅうなったら遠慮会釈もなしに取ってまう。ほいで飽きたら、私にぽいと投げてよこすんや。浩一郎さんがいらんなったら、また私に戻してくれる気か、菜穂」  妹は目を大きく見開いた。 「なにゆうんや」  私は菜穂を睨みつけて、ゆっくりと首を左右に振った。 「もう、あんたのお下がりなんかいらん。あんたにだけ、ええめにはあわさへん。今まで私に迷惑ばっかりかけてくれたけど、今度は、菜穂、あんたがそのつけを払う番や」  私はテレビのほうににじり寄りながらいった。 「あんたら二人、絶対に一緒にさせたらへんわ」  夫と菜穂は当惑して私を見守っている。浩一郎の手が守るように妹の背中に回されている。それがますます私の怒りを掻《か》きたてた。怒りは、悲しみと絶望を押し遣《や》り、私の全身から迸《ほとばし》りでてくる。自分の心のどこに、これだけの憎悪が蓄えられていたのか不思議なほどだ。テレビの横に置いた電話機に手を伸ばして、私は叫んだ。 「警察にゆうたるわ、あんたらが坂上を殺したって。死体の場所もわかってる。私が証人や。二人とも刑務所行きや。そうなったら、一緒になんかなれへんわ」 「志野っ、馬鹿なことすんなっ」  浩一郎が私に飛びついてきた。私は彼の腕から擦りぬけると、電話機を膝に置いて、ダイヤルを回した。一を二度回したところで、夫が私を羽交い締めにした。受話器が畳に転がった。私は夫に抱かれる恰好《かつこう》で、仰向けに倒れた。夫の脚が私の腹に絡みつき、腋《わき》から差しこまれた両腕が私の肘《ひじ》をつかむ。酒の混じった夫の匂いがした。彼の体の温かさに包まれ、激しい怒りは一瞬のうちに燃えるような情欲に変わった。はじめて心から夫に抱かれたい、と思った。虚空にもがく私の指が夫の頬《ほお》に達した。そのざらざらした頬をそっと撫《な》ぜた。優しく、心をこめて、二度、三度……。  背後で、夫の喉がごくりと鳴る音がした。股間《こかん》の性器がぴくりと震えたのがわかった。 「殺してえっ」  菜穂の金切り声があがった。夫がびくっとして、顔を背けた。私の指が宙に泳いだ。 「殺してっ、殺してっ。浩一郎さん、お姉ちゃんを殺してっ」  菜穂の声が続く。夫がぎょっとしたように、体をこわばらせた。  私は首を捩《ねじ》って妹を見上げた。妹はかがみこんで、私の首に巻いたマフラーの両端を引っ張った。 「菜穂っ、あんた……」  喉が詰まって、言葉が途切れた。私は歯を喰い縛って、手足を暴れさせた。 「浩一郎さんっ、しっかり、お姉ちゃんを押さえつけといてやっ」 「けど、菜穂。志野まで殺さんでも……」 「殺さなあかんのやっ」  菜穂は怒鳴って、さらにマフラーを締めてくる。妹の瞳《ひとみ》が燃えていた。それは子供の時から幾度となく見てきた、あの眼差し。いらなくなったものを棄てる時の容赦のない冷たい瞳だった。  だが、その瞳はだんだんぼやけてくる。目の前が暗くなってくる。息ができない。頭が爆発しそうだ。ひゅーっ、ひゅーっ。喉が鳴った。菜穂の声がする。 「あかんっ。浩一郎さん、手伝うて」  首を絞める手に、さらに力が加わった。  喉が潰《つぶ》れる。私は目をかっと見開いた。  夫と菜穂の顔が瞳に映っていた。顔を醜く歪《ゆが》ませて、並んだ男と女。必死の形相が二人の顔を奇妙によく似させていた。  許さない。  私は心の中で叫んだ。  決して、許さない。死んでも許すものか。私を裏切った、夫と妹を……。  次の瞬間、ふっと二人の顔が消えた。暗闇《くらやみ》に意識が消える前に感じたのは、微《かす》かな匂い。  樒の香りだった。     八  飯の炊ける白い湯気が台所の窓を曇らせていた。流しに立った初老の女が、かちゃかちゃと音をたてて、湯飲み茶碗《ぢやわん》を洗っている。茶の間では、沈痛な面持ちの人々が声をひそめて話をしていた。暗い窓の外から、しんしんと寒さが押し寄せる。盛んに焚《た》かれるストーブの熱でもまだ足りないのか、皆、時折、手をさすりあわせている。  茶の間の隣の部屋からは、啜《すす》り泣きが洩《も》れてくる。蒲団《ふとん》に横たわる遺体を囲んで、肉親が集まっていた。  両手を膝《ひざ》に置いて、身じろぎもしないでうつむいている浩一郎。菜穂はハンカチを目にあてて長い睫毛《まつげ》を瞬かせている。手を握り合い、呆然《ぼうぜん》と娘の遺体を見守る両親。その後ろで、義彦が、妻の千賀子に小声でいった。 「お姉ちゃん、首、絞められてたんやてな。警察の人がゆわはってた」  千賀子は菜穂のほうを憚《はばか》るように見て、囁《ささや》き返した。 「お義姉さんも気の毒に。まさか、菜穂さんを追いかけてきた男に、二人の仲を裂いたて逆恨みされて殺されたとはなぁ」 「警察もなにしとったんやろ。坂上ゆう男のことは、ずっと前から捜しとったちゅうやんか。とろくさいことしてる間に、こんなことになってもうた」  義彦は唇を震わせて、仏壇の前に横たわる遺体を見遣った。警察の検視も終わって帰ってきた遺体は、北に頭を向けて寝かされていた。首を絞められたせいで醜く引きつれた形相も、白い布で覆われている。 「ごめんなさい」  廊下との境の襖《ふすま》が開いて、盆を持った近所の女が入ってきた。四角い盆には、塩と生|味噌《みそ》、竹と木の不揃《ふぞろ》いの箸《はし》を一膳《いちぜん》突き立てた、炊きたての白飯が載っている。 「枕飯がでけましたで」  手伝いの女は小さくいって、遺体の枕辺に盆を置いた。 「ああ、どうも、すいません」  浩一郎が頭を下げた。女は一旦《いつたん》、台所に引っこんで、すぐにコップを持って戻ってきた。 「これ、これ。忘れたらあきまへんわ」  コップには、瑞々《みずみず》しい一本の樒《しきみ》の枝が挿されている。  菜穂の顔が一瞬、歪んだ。 「樒、飾るんですか」  菜穂は少しつっけんどんに聞いた。手伝いの女は、浩一郎に向かって答えた。 「そら、樒は、死人の魂の宿る木。死んだ人の枕許には、一本樒を置く、てのがお通夜のしきたりですがな。浩一郎さんのご両親が亡くならはった時も、そうしたですやろ」  浩一郎は暗い顔で頷《うなず》いた。菜穂はまだ不満気だったが、それ以上は口を挟まなかった。近所の女は神妙な表情で、枕許を一本樒で飾った。そして、すべてのものが通夜のしきたり通りに収まっていることを確認すると、部屋から出ていった。  廊下の襖が閉まったとたん、菜穂が僅《わず》かに浩一郎のほうににじり寄った。だが、両親も義彦夫婦も気がつかない。  菜穂が浩一郎の家に身を寄せていたことがわかり、両親は内心ほっとしていたが、今はそれより、長女の死を受け止めることで精一杯だった。義彦は、葬式の手配に頭を巡らせ、千賀子は実家に預けてきた子供のことを心配していた。  通夜の準備が整った頃、僧侶《そうりよ》がやってきて、読経がはじまった。老齢の僧侶の眠るような声の経の後、焼香に入った。急な訃報《ふほう》で、弔問客は近隣の者しかいない。日頃から近所づきあいの悪い浩一郎だったから、皆、そそくさと遺体の前で手を合わせて帰っていく。葬式組の人たちも明日の式の手筈《てはず》が決まると引き揚げていき、やがて身内の者しかいなくなった。  そして家の中は静かになった。  ごおおおっ、ごおおおっ。  風の音が山中の一軒家を包んでいる。 「志野みたいな、あんなええ子が殺されるとはなぁ」  母親がぽつんと口を開いた。 「誰からも恨みを買うような子やなかったのに……」  菜穂が突然、席を立つと、部屋から出ていった。台所に入って、流しに両手をつき、がっくりと肩を落とした。 「大丈夫か、菜穂」  浩一郎が台所に現れて聞いた。菜穂は黙って首を横に振った。浩一郎は菜穂と並んでステンレスの流しに立った。 「私、怖い。浩一郎さん」  菜穂は、浩一郎の耳に囁いた。 「安心しいや。誰も、俺らのしたことは、わかりゃせん。警察かて、なんも疑わへんかったやないか」  それでも菜穂は青ざめている。  浩一郎はそっと背後を振り向いた。通夜の間に続く廊下に人影はない。彼は菜穂の肩をつかんで素早く告げた。 「ほとぼりが冷めたら、結婚しよう」  菜穂の顔が明るくなった。唇の端に痙攣《けいれん》のような微笑《ほほえ》みが広がった。 「嬉《うれ》しい……嬉しいわ、浩一郎さん。私、今度こそ幸せになれる……」  そして、流しの縁にくっつけた自分の腹を見下ろした。 「私な、子ができたかもしれへんのや」  浩一郎は驚いて、なんやて、と呟《つぶや》いた。菜穂は瞳をきらめかせた。 「このところ生理がないんや。……またたび酒の効果かもな」  呆然としていた浩一郎の表情が、徐々に笑いへと崩れていく。彼は流しに置いた菜穂の手を握りしめた。 「やっぱし、またたび酒は体にええんや。俺のゆうた通りや」  二人はどちらからともなく台所の棚を振り向いた。  下の段には茜《あかね》色に輝くまたたび酒が六本、並んでいる。浩一郎が浮き浮きした声でいった。 「来年からは、俺、おまえのために、またたび酒、作ったるわ」  菜穂は上目遣いに浩一郎を見て、甘えたように笑った。 「ほな、まず、あのまたたび酒、呑み尽くさんとな」 「せやな。志野の作った最後の酒や。二人でたんまり味あわせてもらお」  ああ、たんと呑むがええ。  私は、声にならない声で返事した。  台所の暗い天井の隅から、私は夫と妹を見下ろしていた。ここからは、六本残ったまたたび酒がよく見える。二人はこれから毎晩のように、あの酒を呑むだろう。うまく私の死を誤魔化《ごまか》したと悦《よろこ》びながら、杯《さかずき》を重ねるだろう。そして六本が五本に、五本が四本に減っていき、やがて最後の一本が残る。  最後の一本は、他のまたたび酒よりは少し色も濃い。またたび油虫が浮かんでいないから、菜穂は喜ぶかもしれない。味も他のまたたび酒より、ずっと甘い。きっと私が砂糖の分量をまちがったと思うことだろう。  だから気にせずに呑むだろう。  その酒を。悪しき実の酒、樒酒を。  裂けた樒の実は、乾燥させたまたたびの実とよく似ている。だけど、その中にある黄褐色の種は、人を殺せるほどの強い毒を持っている。  坂上が来るのではないか、と怯えていた時、私は樒酒を漬けた。夫も誰もいない時、坂上が来たら、上手《うま》くいいくるめて樒酒を呑ませようと、多量の実を拾ってきて焼酎《しようちゆう》に漬けこんだ。いざとなれば、私は坂上を殺す覚悟だったのだ。そうして妹を、夫を、守るつもりだった。  今、思えば、なんという皮肉か。すでに殺されてしまった人間から、殺人者を守ってあげようとしていたとは。  浩一郎と菜穂が、私の横たわる部屋に戻っていく。廊下を進むに従って、顔を覆っていた笑いは消え、通夜の席の襖を開けた時には、悲しげな表情を繕っている。  元通りの位置に座り、夫と妹は黙って両親や弟夫婦の会話に耳を傾ける。しかし、二人の心の中は歓びに打ち震えている。私が心をこめて整えてきたこの家で、幸せな生活を送ろうと考えている。私を追い払って、もう邪魔する者はないからと、二人きりの楽しい未来を頭に描いている。  だが、浩一郎も菜穂もわかっていない。二人きりなぞ、ありえないことを。私はこの家から離れない。そして夫と妹を見守り続ける。夜の睦言《むつごと》を交わす時も、茶の間で酒を呑《の》んでふざけ合う時も、いつだって私はここにいて、二人を見つめている。  そしてやがて六本目のまたたび酒に手を出す日が訪れる。二人は何の疑問もなく樒酒を呑んで、苦しみ、あがき……そして、死の世界へと入ってくる。私のいる、こちら側にやってくる。  その時こそ知るだろう。人を殺しても、何の解決にもならないことを。愛憎のもつれは、死を越えて残り続ける。  坂上が死んでも、菜穂にまとわりついているように。  今も暗い窓の外に、坂上の白い顔が浮かんでいた。彫りの深い顔で、じいっと家の中を覗《のぞ》きこんでいる。通夜の席で、空涙を流し、姉を殺したと、坂上の悪口をいう菜穂を静かに見つめている。  死んで、私は理解できた。  やはり坂上は私たちの周囲を徘徊《はいかい》していたのだ。樒の下から湧《わ》きあがり、甘い香りを撒き散らしながら、菜穂を求めてさまよっていたのだ。樒の匂いは死者の匂い。近くに死者がいる印だったのだ。  がたがたがたっ。窓《まど》硝子《ガラス》が風に震えた。うなだれていた者たちが顔を上げた。 「あ……」  菜穂が、ハンカチを口許《くちもと》からはずして、あたりを見回した。 「どうしたんや」  浩一郎が聞いた。 「樒の匂いがなんや強うなった気がして……」  遺体の枕許に皆の視線が集まった。  一本樒が揺れていた。  死んだ私の枕辺で、ふうらふうらと揺れていた。  恵比須     一  弁当箱に太刀魚《たちうお》の塩焼きを入れていると、ふわりと檸檬《レモン》の匂いがした。顔を上げたら、流しに娘の克子が立って、食べ終わった朝食の茶碗《ちやわん》を洗い桶《おけ》に浸《つ》けている。この春、高校に入ってから、急におしゃれに気を遣うようになった克子のコロンの香りだった。毎朝、遅刻ぎりぎりに家を飛びだすくせに、身支度だけは忘れない。そのぶん学業にでも神経を遣ってもらいたいものだと、親なら誰しも考えることを頭の中で思い浮かべながら、弁当箱に蓋《ふた》をした時、娘の頬《ほお》にかかった髪の毛の奥で、なにかがきらりと光った。おや、と思って手を伸ばし、さらさらとした克子の髪を掻《か》きあげた。  娘が「きゃっ」といって顔を反らせたのと、私が「克子っ」と叫んだのは同時だった。「ちょっと、あんた、こんなもん、いつの間につけたがで」  私は娘の耳たぶをつまんだ。ぽちやぽちゃした耳の先には、水滴のようなガラス玉が光っている。 「ピアスらぁつけたら許さんて、いうたじゃないかえ」  克子は身を捩《ねじ》って私から離れると、ばつが悪そうに視線を左右に走らせた。 「そんなもんつけちょったら、先生に見つかって、学校、退学になるで」  高校の入学式の時、最近、男女を問わずにピアスをする生徒が増えているが、こういう生徒を発見したら、停学や退学処置も考えていると、校長に釘《くぎ》をさされたのだ。不安になった私は、家に戻ってから、克子にピアスなぞしてはいけないと念を押した。克子は心外だという顔をして、「私がピアスらぁするもんかえ」と答えたものだった。 「清原先生いうたら、ぼさっとしちゅうき、わかりゃせんち」  克子は髪の毛の上から耳を押さえて薄ら笑いをした。清原先生とは、克子の担任の教師だが、風に揺れる葦《あし》を思わせる頼りなげな風貌《ふうぼう》のせいで、生徒からは馬鹿にされている。 「見つかる、見つからんの問題じゃない」  私はむっつりといった。 「ピアスのどこが悪いがで。今はみんなぁしちゅうでぇ」 「体を傷つけてまですることがあるかね」 「私の体じゃ。なにしてもええやろ」  克子は私の作った弁当を奪い取って、台所から飛びだした。 「そんな言い種があるかえっ」  娘の後を追いかけようとしたが、戸口に達した時、廊下からにゅっと突きだされた顔とぶつかりそうになって、私は足を止めた。 「寿美さん。そろそろお爺《じい》ちゃんの薬の時間やけど」  姑《しゆうとめ》の喜代子だった。白く濁った瞳《ひとみ》で、私の姿を捉《とら》えようと目頭に皺《しわ》を寄せている。  気がつくと、壁の時計は八時を指していた。高血圧症の舅《しゆうと》の薬の時間だ。  舅の世話は、たいてい姑がしているが、白内障で視力が落ちているために間違ったものを与えてはいけないからと、薬だけは私が飲ませることにしている。短くした制服のスカートを翻し、廊下に面した自分の部屋に消えていく娘に、「学校に行くんやったら、そのピアス、はずしていきよ」と怒鳴り、私は流しの引き出しから白い紙袋に入った薬を取りだした。 「朝から、なに、かっかしゆうがで、寿美さん」  姑がのんびりと聞いてくる。年を取るごとに油の切れかかった機械のように、体も頭もゆったりとしか動かなくなった姑は、始終、忙しくしている私のたしなめ役に回っている。私がこの家に嫁いできた時には、姑だって、一日中、何かに追われるように働いていた。なのに今では、生まれた時から、おっとり暮らしてきたお嬢様みたいにおさまりかえっている。 「克子ゆうたら、親に黙ってピアスらぁつけたがですよ」  私はコップに水を汲《く》みながら答えた。コップの表面に散った水滴が、娘の耳たぶで光っていたガラス玉の輝きに似ている。私はそれをエプロンの裾《すそ》できゅっと拭《ふ》き取った。 「ピアスち、なんぞね」 「耳飾りですがね。耳に穴をあけてつけるがでね。考えただけでも、ぞっとするわ」  姑は、まだピアスとはなにかよくわからない様子だったが、私はそのままにして、水と薬を持って台所を出た。  六、七歩も行けば、すぐに終わりになる短い廊下の突きあたりが、舅と姑の寝起きする隠居部屋だ。襖《ふすま》を開けて中に入ると、舅の民雄は南に面した縁側に座って空を眺めていた。昨日は時化《しけ》で一日中雨だったが、今日はからりと晴れあがっていた。刷毛《はけ》で掃いたような白い雲が、淡い水色の空にかかっている。私が薬と水の入ったコップを差しだしても、舅はまだじっと初夏の青空を仰いでいた。 「お爺ちゃん、お薬ですよ」  声をかけてようやく、陽に焼けて、なめし革色になった顔をこちらに向けた。 「勝彦も、今日はえらいこと魚が獲《と》れたことじゃろうのおし」  三年前まで舅は漁師を続けていた。引退後も、日がな一日、漁のことばかり考えて過ごしている。跡を継いで漁師となった夫と一緒に、今も海に出ている気分なのだ。 「時化の後ですき、どうですろうか」  私は薬の袋を破って、舅に差しだした。 「いやぁ、今日は恵比須《えびす》さまがこじゃんと魚を恵んでくれそうな気がするぞ」  海からくるものは、すべて恵比須さまの贈り物というのは、舅の口癖だ。浜辺に打ち寄せられた海豚《いるか》や鮫《さめ》をそう呼ぶのはまだいいが、海で座礁して流れ着いた遭難者の死体まで恵比須さまだと拝むのには、ついていけない。私は「そうですねぇ」と適当に返事すると、襖や柱を手探りで確かめながら部屋に戻ってきた姑に後は任せて、廊下に出た。克子がいたら、ピアスをはずしたか確かめようとしたが、カーテンで仕切って、弟の清と別々に使っている子供部屋は空になっていた。母親にこれ以上説教される前に、さっさと学校に行ってしまったのだ。私は、白木の箪笥《たんす》の上に置かれたコロンや乳液の瓶を一瞥《いちべつ》して台所に戻った。  狭い台所には、食器棚や冷蔵庫や食卓が押し合いをするように置かれている。ビニールクロスのかかった食卓の前には、中学生の清が座って、朝の連続テレビドラマを観ていた。 「清、あんたも早いこと学校に行かんとまた遅刻するで」  娘に対する怒りがまだ残っていたために、我ながらきりきりした言い方になった。もっとも、私が癇癪《かんしやく》を起こすのは日常茶飯事なので、末の息子は意に介したふうもない。 「そんなことゆうたち、お母ちゃんがお金くれんと行けんがで」  清はテレビ画面に目を向けたままいった。 「なんのお金よ」 「夏休みのキャンプのお金、八千円」 「ありゃ、そうじゃった」  私は自分の額を叩《たた》いた。そういえば昨夜、清に納金袋を渡されていた。隣の茶の間に走りこんで、袋を置いた場所を探していると、息子は椅子《いす》の上で背中を反らせて、背後の冷蔵庫を指さした。 「お金の袋やったら、そこや」 「わかっちゅうんやったら、早ういいや」  清の頭に拳固《げんこ》を落として、冷蔵庫の上の茶色の封筒を取りあげた。バッグに入れていた財布から、五千円札と千円札を引きだす。私のパート代二日分という想いが、頭を過《よぎ》った。 「落としたりしたら、もう出しちゃらんきね。気をつけよ」  お金を入れた袋を渡すと、清はやっと椅子から腰を上げた。そして廊下に出ていきながら、納金袋をひらひら振った。 「キャンプには行かんでもええき、このお金、僕のお小遣いにしたいなぁ」 「おまえの小遣いにするくらいやったら、お母ちゃん、自分で使うわ」  清がなにか言い返したが、よく聞こえなかった。すぐに、「行ってくるでぇ」という声がして、玄関の戸が閉まった。  私は腕まくりをして食器を洗いはじめた。舅姑、夫と克子と清、そして私の茶碗や箸《はし》をスポンジでこすっては濯《すす》いでいく。長男の孝が県外の大学に行くようになり、食器は一人分減ったが、家事が楽になったという気はしない。核家族ならいざ知らず、七人家族の大所帯ともなると、一人減ろうが増えようが、大差はないのだ。  食器を片づけ、茶の間の鏡台の前で髪を梳《と》かしていると、もう八時四十分だ。 「お義母《かあ》さん、洗濯物、頼みますで」  隠居部屋のほうに声をかけて、財布を入れた手提げ袋をひっつかみ、玄関から外に出た。  くねくねとした狭い通りに、平屋の家々が並んでいる。毎年やってくる台風に痛めつけられるために、瓦屋根は白く色褪《いろあ》せ、戸板は反り気味になっている。軒下に網や釣《つ》り竿《ざお》、ヤスなどを置いた家も多いが、たいていは今は使われてなく、埃《ほこり》をかぶって打ち棄《す》てられた状態だ。かつてこの村のほとんどは漁師だったのだが、今や漁業を営む家は減る一方だ。会社員から漁師に転業した私の夫のような人間は珍しい。 「おはようございます」 「時化が止《や》んでよかったねぇ」 「まっこと、ええ日和になって」  家の前を掃除する近所の主婦に挨拶《あいさつ》しながら、私は海のほうに向かっていく。通りの先に見える灰色の堤防の上には、白い海鳥が集まって、朝日の中で羽繕いをしている。山風が海に向かって吹いている。時化の後のからりとした風は心地よい。私は大きく息を吸って吐いた。胸を通った生暖かな息が出ていくと同時に、朝から体内に溜《た》まっていた苛々《いらいら》したものが抜けていく気がした。  道端に、赤く塗られたコンクリートの祠《ほこら》がある。恵比須さまの祠だ。格子の奥に、奇妙な形をした石や、木の根が注連縄《しめなわ》をつけて祀《まつ》られている。どれも皆、浜辺に流れついたものだ。漁師の妻の誰かが航海安全を願って捧げたのだろう、榊《さかき》と一緒に、煎餅《せんべい》と茶が供えられていた。私も軽く手を合わせると、堤防の間を抜けて浜辺に出た。  時化の後の空を映して、海は青い玉のように輝いている。その玉の下縁を、浜辺がぐるりと弧を描いていた。浜辺の両端は、深緑の山と、右手に突きだした突堤によって切られている。突堤の反対側は村の小さな漁港になっていて、灰色の堤防の上に、漁から戻ってきた船の帆柱が並んでいた。  今頃、夫はあそこで獲ってきた魚を水揚げしているだろうか、それとも舅がいったように大漁で時間をくい、まだ海にいるだろうか。  私は浜辺沿いに港のほうに歩きだした。港にある「ひまわり食堂」という幼稚園のような名前のついた小さな一膳《いちぜん》飯屋が、私の職場だ。そこで週末を除く毎日、パートの賄い婦兼給仕として働いている。車かバイクで通ってもいいのだが、歩いても十五分ほどなので、雨の日以外はこの浜辺伝いの道を選ぶ。もっとも、帰りは同じ食堂で働く同僚の車に乗せてもらうために、浜辺を歩くのは朝だけだ。  いい加減忙しい朝に徒歩で通うことを、食堂の女たちはあきれ顔で見ているが、私はこの浜辺を通る時間が好きだった。海鳥の啼《な》き声《ごえ》や波の音を聴きながら、砂に足跡を残して歩いていく。凪《なぎ》の時は、青灰色の海に朝日が斜めに射しこみ、光が平らな海原を渡っていく。海が荒れている時は、どす黒い水平線から白い波頭が威嚇《いかく》するように近づいてくる。そんな海の前を歩いていると、体から私というものが抜けていく感覚を覚える。  漁に出ている夫のことも、三人の子供のことも、世話のかかる舅姑のことも、すっからかんと頭の中から消えてしまい、私はただ浜辺を漠然と歩いているどこの誰ともわからない女になる。子供を叱《しか》りとばし、舅や姑に忍耐強く仕え、夫の身の回りの世話をしてきた宮坂寿美。胸の内では文句を呟《つぶや》きながら、外に対しては元気よく、努めて明るく生きている四十三歳の主婦ではなくなる気がする。  だけど、このことを家族の者にいっても、わかってはもらえないだろう。私がこんなふうに物事を考えること自体、神棚の招き猫が喋《しやべ》りだしたみたいに驚かれると思う。家族にとって私は、短気だけど、気のいい嫁や妻、母親に過ぎないのだから。  私は足早に港に向かいながら、風の中で手提げ袋を大きく振った。海が朝日を浴びて、きらきらと輝いている。暑い一日になりそうだと思いつつ海のほうに目を遣《や》った時、波間におかしなものを見つけた。  西瓜《すいか》ほどの大きさの白っぽい、ふわふわした形のものが浮かんでいた。浮き輪かビーチボールだろうか。だけど、それにしては奇妙な形だ。訝《いぶか》っているうちに、大波がやってきて、波に乗って私の前に転がってきた。  一緒に流れてきた木ぎれに止められて、波が引いた後も残されたその奇妙なものを、私は浜辺の上のほうに転がしていった。見れば見るほど、おかしげな代物だ。淡い灰色で、くねくねとねじくれた歪《いびつ》な丸い形をしている。全体に泡に似たでこぼこがあり、沸騰した湯に落とした卵の白身みたいだ。  しゃがみこんで、近くに落ちていた棒の先で突っついてみたが、表面は硬かった。クラゲやヒトデといった海の生物でもないらしい。そっと指で触れると、つるつるとしている。思いきって手に持ち、鼻を近づけてみた。微《かす》かに潮の香りが漂ったが、それ自体に臭いはない。こびりついた海草や砂を払おうとして、腕時計が九時五分前を示していることに気がついた。そろそろ行かないと、仕事に遅れてしまう。この奇妙なものをすぐに棄ててしまうのは惜しい気がして、私はそれを小脇《こわき》に抱えると、港のほうに歩きだした。  漁港の入口に面している「ひまわり食堂」は、朝の六時から開いていて、漁から帰った漁師や魚を買いつけにきた人たちがよく立ち寄るところだ。しかし私のパートの始まる九時には、漁港関係者の出入りは一段落ついた頃で、次の波の来る昼間までは暇だったりする。私が浜辺で拾った奇妙なものを持ちこんだ時も、六坪あまりの狭い食堂にいるのは、角田というなじみの客一人だけだった。手持ち無沙汰《ぶさた》にしていた同僚の多美子と智恵は、私の拾いものに興味を示した。 「なんやら、変なもんやねぇ。どっかの船が棄てた塵《ごみ》じゃないかえ。ほら、海に核廃棄物やら汚染物質やらを不法投棄する業者がおるいうことやろ。ひょっとして、あれじゃないかえ」 「それより、うちには人の脳味噌《のうみそ》に見えるでえ。頭、割って、脳味噌を出して固まらせたみたいじゃ」  お揃《そろ》いの白いエプロンに三角巾を頭にかぶった二人は、水で洗って、砂や海草を取った灰色の塊をじろじろ眺めて、勝手なことをいいだした。核廃棄物とか、人の脳味噌とか、物騒なことを話題にしながらも、二人とも皺《しわ》の刻まれた口許《くちもと》に薄笑いを浮かべているから、本気でないのはわかったが、少し気味が悪くなった。 「やっぱり海に棄ててこようかねえ」  灰色の塊を外に持っていこうとすると、鰹丼《かつおどんぶり》を食べていた角田が私のエプロンの裾《すそ》をつかんだ。 「待ちや。俺《おれ》にも見せとうぜ」  角田は、村で小さな雑貨屋を営みながら、暇をみては漁業もして、半商半漁といったところで生計を立てている。私たちよりは知識もあるかもしれないと思って渡すと、角田はそれを顔の前に掲げて、真面目《まじめ》な表情で四方八方から調べた。 「プラスティックが熱で変形したものみたいやのお」  脳味噌やら、核廃棄物などという意見より、もっともらしい説明が出てきたので、私は「そうやろうか」と、角田のほうに身を乗りだした。  角田は、それをぺたぺたと平手で叩き、波のようにうねる表面を爪の先で引《ひ》っ掻《か》いた。 「けんど熱で変形したプラスティックにしちゃあ、柔らかいのお。普通、熱が加わって柔らこうなっても、冷えたらまた硬うなるがやないろうか」 「柔らかいプラスティックやち、あるろうに」 「ふん」と答えて、角田は首を傾げた。 「どっちにしろ、変わったもんというがは確かじゃ。俺やったら、家の床の間にでも飾っちょくねや」  そういわれると、やはり棄てるのはもったいなく思えてきた。水で砂や海草を洗い落とすと、そのぐにゃぐにゃした形は、前衛彫刻のようでもある。誰かの棄てた芸術品ということも考えられないではない。新聞紙に包んでいる私を見て、多美子が驚いたように聞いた。 「寿美さん、そんなおかしげなもん、本当に家に飾る気かえ」  彼女の萎《しな》びた茄子《なす》に似た細長い顔には、変な人、という感想がでかでかと貼《は》りつけられていた。私は新聞紙の包みを店の奥に置いて答えた。 「海からきたもんは、恵比須さまじゃきねぇ」  舅の受け売りだったが、それでこの奇妙な拾いものを、長年、漁師をしてきた舅に見せたらどうだろうという考えが浮かんだ。  新聞紙の包みを両手に抱えて家に戻ったのは、午後三時を過ぎた頃だった。家の前まで車で送ってくれた多美子に礼をいって、玄関の戸を開けると、中はしいんとしている。「ただいまぁ」という自分の声が、薄暗い廊下に響いた。奥の部屋にいるはずの舅姑は耳が遠くなっていて聞こえないのだろうが、漁は終わったはずの夫の返事もなかった。  靴を脱ぎ、茶の間に手提げ袋を放りだしてから、夫婦の寝室を覗《のぞ》いてみた。敷きっぱなしの蒲団《ふとん》がくしゃくしゃになっているところを見ると、夫は一旦《いつたん》、家に戻って仮眠して、また出かけたようだった。仲間と一緒に網の繕いや、船の手入れをしているか、誰かの家で酒を飲んだりしているといったところだろう。  私は新聞紙の包みを持ったまま、舅と姑の部屋の襖《ふすま》を開けた。二人は仲良く縁側に並んで座ってぼそぼそと話していた。 「ただいまっ。帰ったで」  大声でいうと、縁側に座っていた二人が同時に顔をこちらに向けた。馬面で色黒の舅に、鼻のひしゃげたお盆顔の姑。顔つきも体つきもずいぶんちがうのに、その振り返る時の顎《あご》の傾け方、視線の遣り方がそっくりだった。 「ああ、寿美さん。おかえり」  声から私だと判断した姑が頷《うなず》いた。 「勝彦さん、一遍、家にもんちょったみたいやけど」  縁側に近づきながら聞くと、姑は嬉《うれ》しそうに白濁した目を細めた。 「ああ、もんちょったけんど、勢ちゃんらと酒を飲むゆうて出ていったわよ。今日は魚がよう獲れたき、お祝いじゃと」  勢ちゃんとは、夫のいとこ、勢二だ。以前、夫は舅と一緒に、家の持ち船に乗って漁に出ていたのだが、その船が時化《しけ》で座礁した。夫も舅も無事だったが、もともと老朽化していた船は大破してしまった。新装備をつけた船を買うには、保険金だけでは間に合わず、どうしようかと悩んでいるところに、舅は医者から、高血圧症で心不全を起こす危険性があると診断されてしまった。姑の願いもあり、舅は引退することになり、夫は今は持ち船のないまま、勢二とその弟の友甫の操る船に乗っている。 「儂《わし》のいうた通りじゃったろう、寿美さん。今日は恵比須さまが大盤振る舞いしてくれたがじゃ」  舅は空を顎で示して、にやりとした。私は話のきっかけができたので、これ幸いと縁側に新聞紙の包みを置いた。 「お義父《とう》さん、私も今日、海で恵比須さまを拾うたがですき」  きょとんとしている舅《しゆうと》の前で、私は新聞紙を広げて、今朝、浜辺で拾ったものを出した。 「こんなもんが海から流れてきたがです。いったいなんですろう」  舅は眉《まゆ》をひそめて、その薄灰色の塊を受け取った。まず両手で撫《な》でまわし、そして鼻をつけてくんくんと嗅《か》いでから、大きな声で断言した。 「鯨《くじら》の糞じゃ」  姑が腕で鼻を覆い、「いやちや、寿美さん。そんなもん、持ってきて」と私を恨んだ。私はうろたえて「知らんかったがです。今、棄《す》てますき」と、舅の手から拾いものを取り戻そうとした。しかし、舅は鯨の糞といったものを大事そうに膝《ひざ》の上に抱えた。 「棄てるらぁて、馬鹿なこといいなや。鯨の糞ゆうたち、こりゃ、たいちゃあ珍しいもんらしいで」 「鯨のうんこが、なんで珍しいもんですかえ」  姑はまだそれが臭《にお》うと思っているらしく、鼻を掌《てのひら》で覆ったまま聞いた。舅は、鯨の糞を両手で支えて、外の光に透かした。 「とっと前のことじゃけど、儂が鰹船に乗って、南の海まで出ていきよったことがあったろう」 「そうやったねぇ。家を出たら、何か月も帰りゃあせんかった」  少し恨みのこもった姑《しゆうとめ》の口調だったが、舅は意に介さずに続けた。 「その時のことよ。どこか忘れたが、たまさか南洋のある島の湾に停泊することになったがじゃ。皆で久々に陸《おか》に上がって、火を焚《た》いて魚やら肉やらを焼いて食うた。まっことうまいもんじゃった」  話が横に逸《そ》れてしまいそうだったので、私は「鯨のうんこ」と口を挟んだ。舅は、ああ、といってまた膝の上の薄灰色の塊を撫でた。 「仲間の一人に英語のできる男がおってのおし、焼き肉の匂いに釣られてやってきた島の者と話を始めたがじゃ。ほいたら、その島の男、たいちゃ、図体の大きな衆《し》じゃったが、日本人と話したがが珍しかったのかのお、ええもんを見せちゃるき、家に来いといいだした。長い間、船にばっかし乗っちょったもんやき、儂らも退屈しよったとこじゃ。ほいほいと、四、五人、ぞろぞろついていったら、見せてくれたがが、これと同じもんじゃった」  舅は赤子をあやすように薄い灰色の塊を持ちあげてみせた。 「男がいうにゃあ、船に乗って沖で釣りをしよったら、鯨が見えたと。その後すぐに、波の間から、これがぷかんと浮きあがってきたと、自慢げにいうがじゃ。島の男はこれは鯨のなんやらじゃとしきりに説明しよったが、通訳の男の英語力じゃあ、ようわからん。儂らで勝手に、鯨の糞じゃと思うただけじゃけどのお」 「鯨の体から出てきて、波間にぷかんと浮いたとしたなら、やっぱり鯨のうんこですやろねぇ」  私はせっかく拾ったものが、あまり聞こえのいいものではなかったことに少々がっかりして呟《つぶや》いた。 「けんど、通訳した仲間の話じゃあ、その島の男はこれを見つけて運がよかったと何遍もいいよったらしい。儂ゃ英語はわからんけんど、その男がえらいこと嬉しそうにしよったき、確かやと思うぞ」  舅は、私にそれを返していった。 「海からきたものじゃき、恵比須さまじゃ。大事に神棚にお祀りしちゃったらええわ」 「そうですねぇ」  鯨の糞をありがたがっていいかどうか考えながら、私は舅と姑の部屋を出た。茶の間にある神棚に、大きな鯨の糞を飾っていると、玄関の戸が開く音がした。誰かが戻ってきたらしい。みしみしと廊下が鳴り、そばかすの浮いた克子の顔がそっと台所の戸口に突きだされた。しかし、隣の茶の間の椅子《いす》の上に立っていた私と目があったとたん、娘は慌てて頭を引っこめた。 「克子っ」  私の声に、克子の顔が再び台所の戸口に現れた。私は足場にしていた椅子から降りて、娘の髪を掻きあげた。耳たぶにピアスはついてなかったが、代わりに針で突いたような跡があった。私は顔をしかめた。 「耳に穴らぁあけて、痛うはないかえ」  克子は私がいきなり怒りださなかったことにほっとしたらしく、紺色の制服の下で、肩の力を抜いた。 「たいして痛うはないで。ほんのちょっとの間、ちくっとするだけや」 「なにを使うて、穴、あけたがで」 「安全ピンよ。友達と交替交替でやるが」  十五、六歳の娘たちがお互いの耳に穴をあけている姿を想像して、背筋に悪寒が走った。おしゃれのためとはいえ、それは私の過去のどこを探っても出てこない経験だった。 「なんで、そんなことしてまで、ピアスをつけたがるか、お母さんにはわからんわ」  克子は困ったように笑って、頭を振った。毎日一時間はかけて手入れしている髪がさらっと揺らぎ、檸檬《レモン》の香りがあたりに広がった。  なぜだろう。心の隅でちらりと思った。娘はコロンの匂いをふりまき、ピアスをして、楽しげに学校に通っている。上の息子は親の仕送りで、のびのびと大学生活を送っている。下の息子は、夏にはキャンプ、秋には修学旅行と、親も行けない旅行に連れていってもらえる。夫は大漁だといっては仲間と酒を飲みに行き、舅や姑は日がな一日、縁側で茶飲み話にふけっている。そして私はといえば、化粧をしたり、身ぎれいにする余裕もなく、朝から晩まで髪を振り乱し、ばたばたと働いているのだ。  なぜ、こういうことになっているのだろう。  不意に襲われた疑問に自分自身、どう答えていいかわからないまま、ぼんやりしていると、克子が鞄《かばん》から茶色の封筒を取りだして、私に突きだした。 「先生から」  克子は私の機嫌が変わらないうちにと、さっさと自分の部屋に引きあげていった。  私は封筒の中から折り畳まれた手紙を出した。担任教師からの、両親との個別面談の知らせだった。木曜日の放課後、訪ねてきてくれと書かれていた。またこれで雑用がひとつ増えた。私は手紙を冷蔵庫の上に置いた。     二  どこかずっと遠いところから、海鳴りが聞こえている。私は蒲団の中で、寝返りを打つ。ごおおおっ、という海の音を聴いていると、まるで波の上を漂っているみたいだ。どんぶり、どんぶら、どんぶらこ。澄んだ青い水を通して、海の底が見える。水色の流れの底に、珊瑚礁《さんごしよう》があり、黄色や赤や青の鮮やかな色の魚が泳いでいる。  なんときれいなのだろう。私はうっとりと波に身をまかせる。私は、波間に漂う灰色のぐにゃぐにゃした塊。浜辺で拾った、鯨の糞。鯨の糞の私は、どんぶらどんぶらと海を漂い、明るい水平線の彼方《かなた》へ流れていく。  これは夢なのだと、ぼんやりと考える。なんとなくおもしろい。鯨の糞になるなんて。だとしたら、私は、その前に鯨の腹の中にいたのだろうか。  海鳴りに、がさがさという音が混じりこんできた。隣の蒲団で寝ている夫が起きだしたのだと、夢うつつで思う。朝食の支度に、私も起きなくてはいけないのだけれど、この夢があまりに心地よいから、目を覚ましたくはない。  私はまだ波の上に浮かんでいる。どんぶり、どんぶら、どんぶらこ。こうして揺られていると、母親の背におぶさっていた子供時代を思い出す。あの頃は、誰かの背中におぶさって、まどろんでいられた。だけど今は、私が家族を背負う番。子供や夫のまどろみのために、私が汗を流すのだ。  そう考えたとたん、瞼《まぶた》の裏の海は潮が引くように消えてしまった。目を閉じたまま脳裏の暗闇《くらやみ》の中で海を探ったが、水色の輝きの破片すらもう引きずりだすことはできなかった。そして私は鯨の糞ではなくなり、四十三歳の女として、蒲団に横になっている。  電灯のつく音に続いて、夫が寝室のカーテンを引く音が響いた。目を開けなくても、窓辺で何をしているかわかっている。窓の外に広がるまだ暗い空を眺めているのだ。無精髭《ぶしようひげ》を右手で撫で、口を牛のように横に動かし、最後に両手で頬をぴしゃんと叩《たた》く。それが一日の始まりの儀式。私が毎朝、顔を洗ったときに、顔の皺《しわ》を指で広げてみるのと同じ。私の場合は、少しでも皺がのびるかもしれないという効用を考えてのことだけど、夫のそれは何のためかはわからない。  夫が部屋を出て、厠《かわや》に入ってから、ようやく私も目を開いた。青白い蛍光灯の光に照らされた部屋で半身起きあがったまま、しばらくじっとしている。  眠気が消えて、頭が働きだすまでに時間がかかる。こんな生活に入って十八年。もう慣れたとはいえ、深夜二時に起きるのは、やはり辛い。  結婚して二年目で、夫から、勤めている会社を辞めて、父親と一緒に漁をするといいだされた時、私にはそれがどんな暮らしを意味するのかわからなかった。軽々しく、おもしろそうやねぇ、と答えたのだが、半月も経たないうちに後悔した。  まだ夜も明けないうちに起きだして、夫のために朝食を作る。天気が崩れるたびに、海に出た夫の安否を心配し、遭難情報が入らないかとひやひやしながら帰りを待つ。三年前、時化で座礁の報せが入った時は、足許《あしもと》がすうっと冷たくなった。幸い、近くにいた漁船に助けられ、命拾いはしたが、毎日の暮らしの底に、一本の見えない運命の糸がぴんと張られている気がする。その糸に躓《つまず》いたら、おしまい。そんな危険をいつも内に抱えている。  だけど、危険と隣合わせにいるはずの夫は、いたってそのことに無頓着《むとんじやく》だ。座礁事故の後はますます図太くなり、私がまたあんなめには遭わんとってよ、というと、俺は一遍死んだ男じゃ、もう何も怖うはない、と笑いとばす。高知市で会社勤めをしていた頃は、夫がこんなことをいう人間だとは思わなかった。この村に戻る前の夫には、誠実すぎて、常に割りの合わない役柄を押しつけられている男という印象があった。その、ちょっと損をしているようなところに、私は惹《ひ》かれたのだった。しかし今やすっかり海の男だ。自信や図太さが、赤銅色に陽焼けした全身から滲《にじ》みだしている。気に入って買った服が、時が経つと別の色に変色してしまったみたいな、妙な気持ちだ。  夫が厠から出てくる音がした。私は頭に広がっていた考えを追い払って、やっ、とばかりに蒲団から立ちあがった。両手を頭上に上げて伸びをした後、台所に行き、電気を灯す。タイマーをかけていた炊飯器から白い湯気があがっていることを確かめて、鍋に水を入れて湯を沸かし、味噌汁の準備をはじめた。 「台風が来ゆういいよったけど、どっかに行ってしもうたみたいじゃ。今日もええ天気ぞ」  台所に入ってきた夫がいう。夜も明けてない空を見て、どうしてそんなことがわかるのだろうと不思議に思うが、父親譲りか、夫の天気予報はよく当たる。朝のうちに、汚れた敷布を洗濯しておこうと考えながら、私は冷蔵庫から昨夜の総菜の残りを取り出して、夫の前に置いた。 「今日は克子の担任の先生との面談日で。午後の四時からやと。お父さん、一緒に行ってくれんかぇ」 「子供のことは、おまんに任すわ」  夫はけろっと答えて、食卓の上に置いてあったらっきょうを口に放りこんだ。 「任すわ、いわれたち困るで。いうたやろう、克子のことには頭が痛いがよ。高校に入ったとたん、コロンつけたり、ピアスしたりして、おしゃれにばっかり気を遣うて」 「女の子やもの、仕方ないんじゃないかや」  夫は娘には甘い。長男の孝が正月に帰省した時には、長髪を後ろでひとつに結んでいるのを見て、そんな女みたいな格好するな、と鋏《はさみ》を持って追いかけたのに、私が克子のピアスのことを告げても、叱《しか》りもしない。  私は夫にご飯をよそって出した。 「そういうけんど、耳に穴あけて、毎日、一時間もかけて髪を梳《と》かして、コロンをふりかけて出ていくがで。このまま放っちょいたら、どこまで進むかわからんで」  夫は湯気の立つご飯を口に押しこんだまま、苦笑いした。 「おまんも大袈裟《げさ》やなあ。克子も色気づいてきたゆうことやろうが」 「けんど、色気にばっかり気を取られても仕方ないやろうに。まだ高校生のくせにおしゃればっかりして」 「そう目くじら立てていわんでもええじゃいが。腹が立つんやったら、おまんもピアスやらコロンやらゆうもんつけたらええじゃいが」 「私がいいゆうがは、そういうことじゃないで」  夫は腫《は》れぼったい瞼《まぶた》の下から、ちらりと私を見上げた。 「けんど、おまんの言い方を聞きよったら、克子のことを羨《うらや》みゆうみたいやぞ」 「親として心配しゆうだけです」  私はできたばかりの味噌汁を夫の前にどんと置いた。中の汁が揺れて、食卓にこぼれた。 「お父さんが、ちっとも子供のことを気にしてくれんきに、こうして私が気を揉《も》まにゃいかんがやないですかえ」 「放っちょいても、子は育つ。まあ、あんましきりきりせんでもええじゃないかえ」  夫は味噌汁を啜《すす》って、勢いよくご飯を食べはじめた。私は茶を淹《い》れる自分の手元を睨《にら》みつけた。  私が、家族の色々な問題に気を揉み、自分の時間も持てないほど動きまわっているのに、夫は半日、海で働いただけで、後は悠然と構えている。なんだかいい役割だけ取られたみたいだ。かりかりして娘を叱り、夫に当たっている妻。私だって、本当はこんなざまは見せたくはない。鷹揚《おうよう》に構えて、出てきた味噌汁やご飯を食べながら、夫の文句をさらりと受け流したい。  私は夫の湯呑みに茶を淹れてだすと、自分も茶を啜った。どこかで気の早い鶏が啼いている。  台所には、夫がくちゃくちゃと食べる音が、夢に出てきた海鳴りのように静かに流れ続ける。私は茶を啜ると、隣の茶の間を見遣《みや》った。  テレビの上の神棚には、灰色の塊が載っていた。舅にいわれて、前には御神酒《おみき》の小さな杯《さかずき》が供えられている。  鯨の糞か。  私は鼻先で笑った。  あれが私なのだ。  克子の通っている高校に着いた時は、四時をずいぶん回っていた。出がけに、清が自転車で転んだといって帰ってきた。明日までに乾かそうと、その泥だらけの制服のズボンを洗っていたために遅くなったのだ。軽自動車を学校の玄関脇の駐車場に止めて、廊下を小走りに教室に行くと、担任の清原先生は細長い体を椅子《いす》の上で伸ばして本を読んでいた。 「遅れてすみません」  私は大声で謝りながら、教室に入っていった。  清原先生は、三十代後半の男性だ。萎《しな》びかけた草の葉のような色の悪い顔をして、眼鏡をかけている。生徒に軽んじられるのも無理はないと思うほど、迫力に欠けている。先生は、私に気がつくと本を閉じて、気弱な笑みを浮かべた。 「いや、いいんですよ。宮坂さんですね。お座りください」  私たちは、スチール製の生徒用の机を挟んで向かい合った。 「いつも克子がお世話をかけております」と、一通りの挨拶をすませてから、清原先生の克子に対する意見を聞いた。 「宮坂君は、おとなしい子でしてね。僕のほうからは、これといった問題もないように思えるのですが、お母さんのほうで、なにか気にかかっていることがあれば……」  喉元《のどもと》まで、ピアスのことが出かかった。この先生は、本当に気がついてないのだろうか。 「ええ、まあ、最近、おしゃれにこじゃんと気を遣うようになったくらいのもんですけんど。あの子ばぁの年頃の子は、皆、そうですろうか」  私は探りを入れてみた。清原先生は、困ったふうに眼鏡を鼻頭に押しあげた。 「まあ……そうですね、お子さんが特別、おしゃれに気を遣っているようにも見えませんが……」  この教師相手に何を相談しても無駄な気がした。忙しい時間を割いて、面談するほどのこともない。これからスーパーで夕食のための買物をしなくてはいけないのだ。暇乞《いとまご》いをするきっかけを探していると、机の上にあった本が目に入った。 『原色鉱物図鑑』。私が来るまで、清原先生が読んでいたものだ。それで、この担任教諭の専門が理科だったことを思い出した。 「娘のこととは関係ないがですけど、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが」  私は、先生のほうに身を乗りだした。 「僕にわかることやったら」  清原先生は、少したじろいだように答えた。 「実はこの前、浜辺で妙なものを拾うたがです」  鯨の糞といわれているもののことを告げると、先生は腕組みして首を傾げた。萎びた草の葉色の頬《ほお》がすぼんでいる。そのまま返事がないので、「いや、わからんやったら、ええがです。たいしたことじゃありませんき」といって話を切りあげようとした時、清原先生が細い手を横に振った。 「待ってください。ちょっと思い当たるものはあるんですよ。でも、資料を見ないと……、そうだ図書室に行きませんか」  なんだか面倒《めんどう》なことになりそうだった。時間の余裕もないから、このまま帰りたかったが、自分から言いだした手前、断るわけにもいかない。私たちは教室を出て、廊下を並んで歩きだした。  廊下に面した運動場で、白い体操服を着た生徒たちが、放課後の部活をしている。バレーボールに野球にサッカー。元気のいい声が山の斜面を削って作られたグラウンドいっぱいに湧《わ》いている。  子供の学校を訪ねるたびに思うが、ここは別世界だ。親の背中におぶわれた子供たちの世界。この子供たちは、自分がいつか、同じように子供というものを背負わなくてはならないとは考えもしないで、ただ「今」という時を楽しんでいる。  図書室には、放課後、勉強している生徒たちがちらほらいた。清原先生は、本棚に歩いていき、ずらりと並んだ百科事典の中の一冊を引きだした。それを机の上に置いてぱらぱらとめくり、あるページで止まった。 「もう一度、拾ったものの様子を説明してくれませんか」  私は、明るい灰色をしていること、泡が固まったみたいな形をしていることなどを告げた。 「宮坂さん、それ、龍涎香《りゆうぜんこう》かもしれませんよ」  清原先生は百科事典のページに目を落としたままいった。 「龍涎香……」  聞いたこともない名前だった。 「なんですか、それ」  清原先生は、百科事典の件《くだり》を指で追いながら、読みあげはじめた。 「龍涎香。英語では、アンバーグリス。灰色の琥珀《こはく》という意味で、褐色、灰褐色、白、黒などの色をして、琥珀に似た半透明の材質をしている」  確かに色はそんなものだが、琥珀なんてじっくり見たことがないから、似ているかどうかはわからない。返事に困っていると、清原先生は続けた。 「中世のアラビア人は、その形状から、海底にある泉から浮きでてきたものだとか、海底の浮泡が凝固したものだとか考えていたようです。実際は、抹香鯨《まつこうくじら》が常食する烏賊《いか》や蛸《たこ》の嘴《くちばし》部分の角質が体内で蓄積されて蝋《ろう》状になり、結石となって排泄《はいせつ》されるらしいですね。直接、抹香鯨の体内から取りだす以外は、たまたま鯨の体内から排泄されて波間に浮かんでいるものを拾うか、海岸に打ちあげられたものを見つけるかしか、採取方法はないと書かれちょります」  あれが鯨の結石だったとしても、肛門《こうもん》から出てきたものにはちがいなさそうだ。私は、先生の言葉を自分なりに理解して呟《つぶや》いた。 「やっぱり、鯨の糞みたいなもんながですね」 「いや、ただの鯨の糞じゃないがですよ」  清原先生は、私に顔を向けた。眼鏡の奥の目が輝いている。あれ、この先生、こんな生き生きした表情も見せるのだと、私は意外に思った。 「龍涎香の中には、芳香物質が一パーセントほど含まれているんです。そのため、昔から、中国やアラビアなどでは、媚薬《びやく》、香料として珍重されてきたようです。現在でも香水を作る際の香料として使用されているということが、ここに出ちょります」  私は苦笑いした。 「ほいたら、私の拾ったもんは龍涎香らぁいうもんじゃないですち、先生。あれには、匂いらぁ、なんにもありゃあしませんでしたき」  清原先生は、また百科事典に目を落としてから頷《うなず》いた。 「そうです、そうです。鯨の体内から取りだした場合は、ものすごい臭いがあるらしいですが、海水中で凝固すると、もうなんの匂いものうなるらしいですよ。ですが、他の香料と併用することで、芳香物質として作用するとあります」  まだ納得いかないでいると、清原先生が百科事典を私にも読めるように押しだした。私は、ページを覗きこんだ。  確かに『龍涎香』という項目がある。ほとんど清原先生のいったことと同じことだったが、ざっと読んでいくと、記事の最後に書かれている文章で私の目が止まった。 『龍涎香は、一時は金と同じくらいの価格で取引されていたが、昭和五十一年、ワシントン条約で鯨の捕獲が制限されるようになって以来、その価値はさらに高くなっている。』  金以上の価値。  私は心の中で呟いた。 「抹香鯨は季節的に回遊してくる動物で、夏場はこの高知の大月町の沖にも現れるぐらいですき、この浜に龍涎香が流れついたとしても不思議ではないですねえ」  清原先生が、図書館の椅子の上で足を組んでいった。私は上の空で頷いた。  私の頭には、波間に漂う宝船の姿が浮かんだ。その船の上には恵比須さまが乗っている。皺《しわ》だらけの顔をくしゃくしゃにして、大口を開けて笑っている神さまが……。  買物をして帰宅すると、もう六時になっていた。夫は風呂からあがったところで、ステテコ姿で扇風機にあたりながら舅と話していた。克子と清は、テレビの前でお菓子を食べている。姑は暇を持てあましたらしく、茶の間に散らばった雑誌や新聞紙を片づけていた。  私は買物袋を台所の食卓に置くと、茶の間に集まっていた家族にいった。 「お爺ちゃんが鯨の糞というた、あの拾いもののことやけど」  耳の遠い舅は扇風機を見つめたままだし、夫は興味なさそうにビールを飲んでいる。姑は顔をこちらに向けはしたが、手は新聞をたたみ続けている。克子や清に至っては、私を振り向きもしない。私は無関心な家族に大きな声で告げた。 「あれ、龍涎香ゆう珍しいもんで、たいそうな価値があるんやと」  誰もがぴんとこない表情をした。私は茶の間に行って、皆の前に座った。 「金みたいに、ううん、今や、それ以上の値打ちらしいで」 「誰かに騙《だま》されたんじゃないか」  夫は信じられないというふうに、龍涎香の飾られた神棚を見上げた。 「克子の担任の清原先生がいうたがじゃ。確かでえ」  克子と清がやっとこちらに顔を向けた。 「龍涎香ち、なんで、お母ちゃん」  清の質問に、今日、学校で聞いてきたばかりの知識を披露すると、ようやく事の重大さがわかったらしい。姑が、舅のそばににじり寄っていき、耳許でその話を繰り返し、夫や子供たちはまじまじと、神棚に祀ってある泡の塊のような龍涎香を見上げた。 「金みたいなもんじゃと」  夫がのそりと立ちあがり、神棚から龍涎香を下ろした。そして、西瓜《すいか》ほどの塊を両手で抱えた。 「ほいたら、こりゃ、金の塊と同じということか」 「ひやーっ、いくらばぁのもんやろう」  清が甲高い声を上げた。 「小さい金のネックレスで二万も三万もするがじゃも、すごいでぇ、お母さん」  克子も興奮したように、私のほうに体をかがめて囁《ささや》いた。 「何年か前、全国の町やら村に、政府から一億円ずつ贈られたことがあったよのお。あの時、ほら、中土佐町がその一億、使うて金の鰹を作ったじゃろ」  夫が額に手をあてていいだした。 「うん、ほいでその鰹が盗まれて大騒ぎしたねぇ」  私もその事件を思い出して、相槌《あいづち》を打った。 「鰹と同じ大きさの金が一億やったがぞ」  夫の言葉に、家族の皆は唾《つば》を飲みこんだ。克子が手を伸ばして、龍涎香の表面に触った。 「けんど、これ、目方は金より軽いんじゃないかえ」 「それでも嵩《かさ》は、小さい金の鰹くらいあるで」  私は娘に言い返した。夫が重さを計るように片手で龍涎香を上げ下げしてから、おもむろに宣言した。 「金の半分の重さとしたら、五千万ばぁするかもしれん」  その金額が家族の頭の中に染みこむまで少し時間がかかった。 「うわーい、ほいたら、僕にパソコン、買うてや」  真っ先にはしゃぎだしたのは、清だった。 「私は服と靴とバッグ。それから鏡台。白うて、金色の縁のついたが」  克子が負けずにいう。夫は龍涎香をちゃぶ台の上に置いた。 「五千万か。こりゃあ大金ぞ」  龍涎香の前で腕組みして、うーん、と唸《うな》っている。 「ねえ、お父さん、それで家を改築したらどうじゃろう。この家もそろそろがたがきちゅうしね」  そういう私の声もうわずっていた。突然、舞いこんだ幸運に、心臓がどきどきしている。  舅が扇風機の前から腰を上げた。夫と克子の間に割って入り、ちゃぶ台に載った龍涎香に両手を合わせた。 「こりゃあ、やっぱり恵比須さまじゃった。ありがたいことじゃ。よくぞ、我が家に来てくだされた」  ぱんぱん、と柏手《かしわで》を打って、お辞儀をした。  その様子をぽかんと見守っていた清が、「恵比須さまち、なんで」と小声で聞いた。 「福の神さまよ」  私は答えると、舅の真似をして手を合わせた。 「まっこと、これは福の神さまじゃ」  夫や姑もつられて龍涎香を拝みはじめたので、子供たちもわけがわからないままに、手を合わせた。茶の間は一瞬静かになり、私たちは皆、五千万円のもたらすものを想像してにやにやしながら龍涎香に頭《こうべ》を垂れていた。     三 「お疲れさま」 「ほいたら、また月曜日にねぇ」  パートの仲間と一緒に、ひまわり食堂を出ると、夏の昼下がりの太陽が矢のように射しつけてきた。私は帽子を目深《まぶか》にかぶり直して、漁港の前の道を歩きだした。  アスファルトの道路にくっきりと影が焼きつけられている。午後の港は閑散としている。吹きさらしの水揚げ作業場にも、三つほど並ぶ倉庫の間にも、人気はない。魚を入れる青いプラスティックの箱の横で、野良猫がかすめ取った魚に喰《く》らいついている。  車の陰で舌を出して横たわっていた犬を追いたて、軽四輪のドアを開けた多美子が、「ひやあ、蒸し風呂で」と叫んだ。  ほんとうに車内はゆで卵でもできそうなほど熱くなっていた。しかし、家まではわずか数分の距離だ。私たちは窓を大きく開け放って、車に乗った。 「聞いたで」  車が漁港を後にして県道を走りだすと、運転席で多美子が話しかけてきた。 「この前の脳味噌みたいなもの、こじゃんと高いもんやったとねぇ」 「誰に聞いたが」  私は驚いた。拾ったものだけに、龍涎香のことはあまり吹聴しないように、家族に口止めしておいたのに。 「家の息子が、清君に聞いたといいよったで。パソコンを買うてもらうがやと、学校でいばっていいよったと。息子ときたら、ええなぁ、ええなぁ、ゆうて、えらいこと羨《うらや》ましがりよったわ」  そういえば、多美子の息子と清とは同じクラスだった。私は渋い顔をした。 「なんでも、金の塊みたいなもんで、五千万ほどするがやと」  県道から村の中に入り、車の速度を落とした多美子が、私を横目で窺《うかが》うようにしていう。清ときたら龍涎香の金額まで吹聴したのだ。息子が近くにいたら、頭を叩《たた》いてやりたかった。 「値打ちらぁ、わからんち。当てずっぽうで、清がいうただけやろ」  ようやく返事をすると、多美子は薄笑いしながらかぶりを振った。 「どっちにしろ、一千万単位のものながやろ。あんた、まっこと運がよかったねえ。大金持ちじゃいか。もう、パートらぁして働かんでもええじゃろ」  私の心に、かつんと硬いものが当たった。  大金が転がりこんだのだから、あんたはもう自分たちとはちがう、と線を引かれたみたいだった。 「うちも、そんなもの拾うてみたいもんじゃわ。明日から、寿美さんみたいに浜を通って食堂に通おうかしらん」 「そうしてみたら」  私は少しよそよそしく答えた。  車が私の家の前で止まった。私は多美子に礼をいって、車を降りた。 「寿美さん、お金持ちになったんじゃったら、今度から運賃を取ろうかねぇ」  多美子は冗談めかしていったが、その底にはやっかみめいたものが感じられた。 「ああ、そうしてや」  車のドアを閉めながら、明日から私も車で食堂に通おうと思った。  玄関のガラスの入った格子戸を引くと、中から笑い声が流れてきた。上がり口には、履き古したビニールのつっかけがいくつも並んでいる。 「ただいま」といって靴を脱いでいると、茶の間から「ああ、寿美さんがもんてきた」と、姑の声が聞こえた。  つっかけは、姑の客たちのものらしかった。  茶の間に顔を出すと、ちゃぶ台に置いた龍涎香を囲んで、見覚えのある三人の老女が麦茶を飲んでいた。姑の茶飲み友達だ。台の上にぼとぼとこぼれた茶が、龍涎香を濡らしていることに気がついて、私はぎょっとしてタオルで拭《ふ》いた。 「今日、堀田医院に行って、待合室で話しゆううちに、皆が恵比須さまを見たいといいだしてねぇ」  姑はにこにこして説明する。同じ年頃の仲間に囲まれて、いかにも楽しそうだ。私は龍涎香の底の水滴を拭き取ると、台の上は狭いですきに、と弁解をしながら、神棚に戻した。 「ほんとに、そんなもんが高いこと売れるがかね」  白髪を散切《ざんぎ》り頭にした、お末さんが聞いてきた。 「わかりゃせんですよ。本物じゃないかもしれんし」  私は、わざと水を差すようなことをいった。 「案外、店に持っていったら、お爺ちゃんのいう通り、鯨のうんちやといわれるかもしれませんき」  顔に黒い染みのある、よく似た三人の老女たちは、一斉にけらけらとしゃがれ声で笑った。 「鯨のうんこやったら、うちの死んだお父さんがいいよったわ。なんでも、それを焼いて、疱瘡《ほうそう》の跡につけるとええんじゃと」 「体に鯨のうんこをつけるらぁて、ええ気持ちはせんぞね」 「いやいや、昔の人はそれで治したというぜよ」  私は騒がしい茶の間を出た。服を着替えに寝室に入ると、夫はズボンを脱いでパンツだけになって昼寝をしていた。その体から、微《かす》かに魚の臭いがする。涼しい簡単服に着替えると、煩《うるさ》い茶の間に入る気もしなかったので、舅の様子を窺いに、隠居部屋に顔を出した。  舅は縁側に座って、空を眺めていた。薄茶色のシャツに、同色のズボンの組み合わせは、庭に立ち昇る陽炎《かげろう》が人の形を取ったみたいに見えた。 「お義母さんが、お友達を連れてきちょりますね」  私は舅に声をかけて、隣に座った。舅は色黒の顔に皺《しわ》を寄せて、頷《うなず》いた。あまり機嫌よさそうではなかった。  私はそれ以上、どう話を続けていいかわからずに、庭に目を遣《や》った。庭先では、鶏頭が火のような赤い花を咲かせている。コンクリートブロックの塀には蔦《つた》が青々と茂っていた。秋になって葉が枯れたら、塀から蔦を引きはがす仕事が待っていると考えていると、舅がぽつんといった。 「あの恵比須さま、ほんとうやったら、村の恵比須さまの祠《ほこら》に奉納するのがええがやけどのお」  私は、どきりとして舅の顔を見た。舅は、パリパリに乾いた渋紙に似た瞼《まぶた》の間から、鋭い視線をこちらに送った。魚のように私が釣り針に喰いつくのを待っていた感じがした。 「浜に流れついた恵比須さまは、村の皆のものじゃきのおし」  舅は、私にいいたくて取っていたにちがいない言葉を吐いた。とんでもない、と胸の内で叫んだ。あれは私が拾ったのだ。第一、あの高価なものを、村の道端にある恵比須さまの祠に置くなぞ危なっかしくてたまらない。  しかし、面と向かって舅に反論することもできず、私は曖昧《あいまい》に、はあ、と返事した。  舅は、それ以上は何もいわなかった。私は頃合いを見計って、腰を上げた。 「お爺ちゃん、麦茶でも飲みますか」  舅はかぶりを振った。 「あんまり冷《ひ》やいものを飲むと、腹を壊すきのお」  私は、そうやねえ、と相槌《あいづち》を打って、隠居部屋を後にした。  相変わらず、茶の間からは老女たちの声が聞こえている。私は行き場を失った気分で、子供部屋に立ち寄った。克子も清も、まだ帰ってはいない。娘の白木の箪笥《たんす》の上に、乳液や化粧水の瓶が並んでいる。その中の丸い蓋《ふた》のついた小さな瓶が目に入った。私は澄んだ海のような水色に光っているそれを取りあげて、丸い蓋を開いた。  ふわりと檸檬《レモン》の香りが広がった。克子のつけているコロンだった。私が香水の類《たぐい》をつけたのは、高知市で事務員として働いている頃。それも、ごくたまに休みの日、外出する時くらいのものだった。この村に来てからは、魚臭い夫のそばで香水の匂いをふりまいても仕方ないので、自然、つけなくなった。  だけど、この甘い香りを嗅《か》ぐと、漁師の妻になる前の自分を思い出す。毎朝、会社にどの洋服を着ていこうかと鏡台の前で思案し、時間をかけて化粧した。自分のことだけを考えていればよかったあの頃。 「お金が入ったら、皆にご馳走しちゃるきねぇ」  茶の間から姑のはしゃいだ声がした。老女たちが、嬉《うれ》しいちや、と返事している。  この三人の老女は、家に帰って、龍涎香のことを家族に吹聴するだろう。村中に、このことが広まるのは時間の問題だった。  そうすると、舅のように、龍涎香は村の皆のものだと言いだす老人も出てくるにちがいない。なんとかしなければ、と思った。早く売って、お金に換えたほうがいい。  清原先生は、龍涎香は香水の原料になるといっていた。私は、克子のコロン瓶のラベルを見た。『アウラ化粧品』。よく聞く化粧品会社の名前が書かれていた。電話番号もついている。オー・デ・コロンを作っているからには、この会社が原料となる龍涎香も買い取ってくれるかもしれない。私は水色の瓶を服のポケットに入れた。  茶飲み友達が引きあげると、姑もさすがに疲れたようで、すぐに部屋に引きあげていった。私は、麦茶を入れていたコップが散らばるちゃぶ台の上に電話を置くと、コロンの瓶に記されている電話番号を回した。 「アウラ化粧品です」  受付の女性が、すぐに応じた。 「あのぅ、つかぬことをお伺いしますが」 「なんでしょうか」  相手の東京言葉の響きに気後れしながら、私は龍涎香を拾ったことを告げた。 「龍涎香、ですか」  受付嬢は経を読むように聞いてきた。それが何なのか、ぴんとこないようだった。 「香水の原料です。鯨の体の中から出てきたもので、それを使うて香水を作るがですよ」 「少々お待ちください」  電話口から、機械が流す音楽が聞こえてきた。化粧品会社に電話したら、あの龍涎香がお手元にあるのですか、と驚かれ、すぐにも売ってくれと頼まれるような気がしていた。しかし、受付の女性も知らないとは。果たして、龍涎香はほんとうに香水の原料なのだろうか。不安になりつつ、私はじっと保留音を聞いていた。 「お電話、代わりました」  次に電話に出たのは、若い男性だった。 「龍涎香について、お問い合わせとか」  今度の相手は、龍涎香のことを知っているらしい。私はほっとしていった。 「実は、この前、浜辺を歩きよったら、龍涎香を拾うたがです」  しばしの沈黙の後、「龍涎香を、ですか」と訝《いぶか》しげな声がした。 「そうです。高校の先生に聞いたら、龍涎香やというがです」 「はあ……」  警戒心の漂う返事だった。 「それで、龍涎香いうたら、ずいぶんと高価なものと聞いたのですけんど」 「そうですねぇ。今の相場ですと、一キロ百万円というところですが……」  私は神棚の上の龍涎香に目を遣った。ちゃんと計ってはなかったが、持った感じを、米袋と比べてみた。十キロの米袋くらいの重さだったように思う。十キロとして一千万円。五千万円という数字が、とんでもない間違いだったことに気がついて、私はがっかりした。しかし、一千万円でも悪くはない。 「十キロばぁあるがです」  私は、相手の反応を待ったが、向こうは黙っている。 「買い取ってはくれませんですろうか」  意を決して持ちかけると、今度はすぐに返事が返ってきた。 「うちはそういう個人的な原料の取引はしてないのですよ。当社で使用する香料は、信頼のおける専門の物産会社から購入していますから」  まるで私の持ちこむものは偽物だといわんばかりだった。私は怒りをこらえて聞いた。 「ほいたら、その物産会社に持ちこんだら、ええんでしょうか」  電話の向こうで、男が鼻から息を吐いた気配がした。 「難しいんじゃないですか。そこは海外の物産会社専門に取引しているところですし……」 「ほいたら、どうしたらええんでしょうか」 「さあ……。拾った龍涎香を売りたいなどという例は、これまでなかったものですから、当方ではわかりかねます。どうしても売りたいのなら、フランスの小さな香水会社に持ちこんだらいかがですか。買い取ってくれるかもしれませんよ」  意地の悪い付け足しのような忠告に、私は絶句した。一介の主婦が、フランスにまで行ってものを売るなんて、できもしない話だとわかっているだろうに。 「ご用件はそれだけでしょうか」  考えていると、男性が聞いてきた。私は、それだけだと答えて、電話を切った。  むかむかした気分で、神棚に飾った龍涎香を見上げていると、廊下で足音がした。 「おお、寿美、もんちょったか」  昼寝から覚めたらしい夫が、茶の間に入ってきた。そして、顔を両手でこすりながら、私の前にどかりと座った。 「船の件、今日、漁協の森さんに相談してみた。五千万もあったら、レーダーから魚群探知機、発電機もついた、五、六トンの立派な船が買えると」  嬉しそうにいう夫に、少し厭《いや》な気がした。龍涎香を拾ったのは私なのに、そのお金は全部、自分のために使うつもりでいる。 「龍涎香売っても、五千万なんかならんみたいで。さっき、化粧品会社に電話して聞いたら、一キロ、百万じゃと。あれ、十キロもないきに、一千万にも足らんくらいで」  夫の顔に翳《かげ》りが走ったが、すぐに気を取り直したらしく、にやりとした。 「なに、一千万も頭金があったら、残りのお金は、船を担保に漁協が貸してくれるろう」 「けんど、龍涎香の買い手は、フランスにでも行かんと見つかりそうもないがで」  私は、夫の夢に水をさすことに快感を覚えながら告げた。 「なんやと」  夫の眉間《みけん》に縦皺が刻まれた。化粧品会社の社員にいわれたことを繰り返すと、夫は腕組みして天井を仰いだ。私は、ちゃぶ台に散らばった麦茶のコップを集めて、台所の流しに運んだ。冷蔵庫を開けて、夕食の総菜について思案していると、茶の間から夫が声をかけた。 「骨董品《こつとうひん》屋はどうじゃろう。そんなに珍しいもんやったら、買うてくれるがじゃないか。高知市内にゃあ、いくつも骨董品屋があるろう」 「けんど、どんな店があるか、どうやって調べるがよ」 「電話帳に出ちゅうろうが」という夫の声を聞き流し、私は冷蔵庫から鶏肉とこんにゃくを出した。これに人参や馬鈴薯《ばれいしよ》を入れて、煮物でも作っておこうと思った。台所の隅の籠《かご》に入れていた野菜を選んでいると、茶の間の夫の姿が目に入った。どこからか電話帳を引きだしてきて、めくっている。  子供の担任教師との面談にも行き渋っていた夫が、龍涎香を売る骨董品屋探しになると、あれほど積極的になっている。船のことがかかっているからだ。私の心に、ふつふつと怒りが湧《わ》いてきた。 「ほら、思った通りじゃ。高知市内やったら、骨董品屋はいっぱいあるぞ。古道具、稀覯《きこう》本、珍品、高価買付、やと。ひとつ電話してみるか」  電話に手を伸ばしかけた夫に、私は叫んだ。 「ええちや、明日にでも私がかける」  夫はきょとんとした表情をした。私は、人参を握りしめたまま、台所と茶の間の境の敷居の上に立った。 「私が拾うたもんじゃき、私がやるわ」  売ったお金も、私のものだとはいわなかった。そういう意味をこめたつもりだった。しかし夫は気づいた様子もなく、あっさりと電話から手を離した。 「そうか。けんど、値段の交渉になったら、俺にいえよ。女やき、馬鹿にされて、安値で手放すことになったら、つまらんきのお」  そして、風呂でも沸かすか、と呟《つぶや》いて、茶の間から出ていった。  私の得たものは、家族の得たもの。家族の幸せは、私の幸せ。龍涎香を私だけのものだと言い張るのは、大人げないし、一家の主婦の考えるべきことではない。わかっているけれど、どこかむしゃくしゃしたものが、心の底にわだかまっている。  人参を流しに放りこむと、私は束子《たわし》でごしごしと洗いはじめた。     四  時計は九時を指していた。  いつもなら、ひまわり食堂に着いている時間、私は家の鏡台の前で、口紅を塗っていた。白粉《おしろい》をはたいて、きちんと化粧をするのは、克子の高校の入学式以来だ。パーマの取れかかった髪の毛を梳《と》かし、一張羅の淡い黄色の麻のスーツを着た姿を点検する。  高知市の文房具店で事務員として働いていた頃は、「可愛《かわい》いね」といわれたこともあったが、四十路《よそじ》も越えると、すっかりおばさん顔になってしまった。だけど、こうして化粧をして、スーツを着ると、ほんのちょっぴり昔のオフィスガールに戻った気がする。  婚礼道具として持ってきた鏡台に映る自分に微笑みかけて、ハンドバッグを持った。  隠居部屋を覗《のぞ》くと、舅が庭で草むしりをしていた。姑は部屋を片づけている。 「ほいたら、行ってきます」と、その背中に声をかけ、次に子供部屋に行った。子供たちは昨日から夏休みに入ったばかりだ。清はまだ寝ているらしく、仕切りのカーテンは閉められている。戸口に近いほうの克子の空間では、娘がショートパンツから太股《ふともも》をむきだして、机の前に座っていた。珍しく勉強でもしているのかと近づいていくと、手鏡で自分の顔を眺めているだけだ。 「克子、お母さん、行ってくるきにね」  娘はびっくりしたように、肩をすくめた。 「いやちや、急に声かけんといてや。寿命が縮まったわ」 「まだ若いあんたの寿命が一日ばぁ縮まったち、困りゃせんやろに」  そういいながら、私は娘の髪の毛を掻《か》きあげた。その下にピアスの輝きは見あたらなかった。  私にピアスをしていることが見つかって以来、家では取るようにしているらしい。しかし、外に出た時もはずしているのかどうかはわからなかった。 「高知に行くがやったっけ」  克子は私の手から逃れるように頭を反らせた。 「うん。高知市まで日帰り。遅うなるかもしれん。すまんけんど、お昼と晩のご飯の支度は頼むでえ。お昼は、南瓜《かぼちや》の煮物やらポテトサラダやらで簡単にして、晩は、ハンバーグを焼いて食べたらええ。全部、冷蔵庫に入れちゅうき、すぐわかる」  克子は面倒臭そうな顔をした。 「うちが皆のご飯、作るがかえ」 「清に手伝うてもらいや。ご飯は炊けちゅうし、あるもんをお皿に盛って出すだけやないかえ」  克子は大人びた表情で、仕方ない、というように頷《うなず》くと、私のスーツ姿をしげしげと眺めた。 「今日は、おしゃれしちゅうねえ、お母さん」  私はハンドバッグを腕にかけて、気取ってみせた。 「まあね、昔の友達に会うがじゃも」 「ほいたら、これでもつけていきや」  克子は手を伸ばして、箪笥《たんす》の上の水色のコロンの瓶を取って手渡した。 「あんたの子供みたいな檸檬《レモン》のコロンらぁ、ええよ」  とっさに押し返したが、克子は「ええやんか、ほら」と、蓋《ふた》を取って、私にふりかけた。ふわっと檸檬の香りが広がり、悪い気はしなかった。 「お母さんも、ちょっとは、おしゃれしたらええがよ」  克子は、自分にもコロンをつけて、蓋をした。 「おしゃれする暇もないのは、誰のせいやと思うがぞね」  私は娘の髪の毛をつんと引っ張って、子供部屋を出た。  茶の間に入って、神棚から龍涎香を降ろす。そして用意していた風呂敷《ふろしき》で手早く包んだ。  今日、高知市に住む友達を訪ねるというのは口実にすぎなかった。本当の目的は、龍涎香を骨董商に持っていくことだ。  電話帳をめくって、高知市内の骨董商にあたってみたところ、最初の二軒には、そんなものは扱ってないと断られたが、三軒目の店が興味を示し、現物を見てみたいといってくれた。それで家族には内緒で持参することにしたのだった。  私は風呂敷包みを抱えると、少し考えて、新聞の折り込み広告の裏に、夫にあてて走り書きをした。『龍涎香、高知の友達に見せてきます。』これで、夫が漁から戻った時、龍涎香がなくなっていても、さほど騒ぎはしないだろう。私は走り書きを神棚に置くと、もう一度「後は頼んだでえ、克子」と声をかけて、玄関を出た。  頭上には曇り空が広がっていた。今日は、あまり暑くなりそうもない。私は白の軽自動車に乗りこむと、クーラーをつけるのは止《や》め、窓を開けてエンジンをかけた。県道を二、三分も走れば、ひまわり食堂の前に出る。安普請の食堂のアルミサッシの窓越しに、手持ち無沙汰《ぶさた》に椅子《いす》に座っている多美子と智恵が見えた。また子供のことや夫のこと、舅や姑の愚痴で時間を潰《つぶ》していることだろう。いつもなら私はあの中にいて、同じように退屈した表情で、忙しすぎる毎日について文句をいっているはずだ。だけど、今日は私はあそこではなく、ここにいる。高知市に向かう車の中にいる。  ひまわり食堂の前を通り過ぎた時、自分が永遠にあの世界から抜けられた気がした。実際、そうなるかもしれない。骨董商が、龍涎香を買ってくれたなら……。  龍涎香の目方を計量器で量ってみたところ、八・三キロだった。化粧品会社の相場からいえば、八百三十万円の価値になる。  五千万円の夢は遠のいてしまったが、それでも私が十年近くパートを続けて、やっと手に入る額だ。それだけのお金が入ったら、パートを辞めて、もっとゆったりとした生活を送るのだ。  道は山手へと登っていく。眼下に私の村が見えた。深く抉《えぐ》れた小さな湾と、背後の山に囲まれた狭い平地にひしめく家々。こんなちっぽけな村で十八年間、暮らしてきたのだ。子供を産み、育て、夫の世話をし、舅姑の機嫌を窺《うかが》い、泣き笑い、怒り散らしながら生活するうちに、いつか長い年月が過ぎていた。  ガードレールの向こうの海は煙り、水平線は消えている。遥《はる》かな沖で灰青色の海と空が溶け合っていた。夫は今頃、港を目指して帰ってきているところだろうか。昼前、家に戻って、私が勝手に龍涎香を持ちだしたと知って、むっとすることだろう。  でも、いいのだ。龍涎香は私が拾ったものなのだから。どうするかは、自分で決める。  眼前に迫った大きな曲がり角で、ハンドルを切る。村も海も山の陰に隠れて見えなくなった。なだらかに下っていく山の麓《ふもと》のほうに、国道が見える。トラックや乗用車が、川の流れのように行き来している。  あの道は、高知市に続いている。大金をもたらしてくれる都市へと続いている。  助手席に置いた龍涎香の風呂敷包みの結び目の端が、風にはたはたと揺れている。  この鯨の糞とも脳味噌とも見えるような灰色の塊を、骨董商はいくらで買い取ってくれるだろうか。龍涎香を見たいといってくれたのだから、その価値はわかっているはずだ。  それにしても、不思議なものだ。この、無臭の醜い塊が、何かの手を加えることで、甘い香りを放ちはじめるとは。  私は、ラジオのスイッチを入れた。クラシック音楽が流れてきた。県内の身近な話題を紹介している高知放送に変えようとした手が、ふと止まった。  バイオリンの音が滑らかに響いている。窓から吹き込んでくる風の中に、克子にふりかけられたコロンの檸檬の香りが混じっている。私は精一杯上品な微笑みを浮かべ、クラシック音楽を聴きながら、国道に入っていった。  骨董商の店は、『巴堂《ともえどう》』といって、高知城のすぐ近くにあった。棕櫚《しゆろ》の並木の続く城の前の追手前通りから、ビルの狭間に隠れるように古本屋や雑貨屋などが営業している小路に入る。その一角にある真新しい五階建てのビルの一階が、目指す店だった。  約束は午後一時半だったが、車を止められる場所を探したり、昼食を取ったりしていると、一時半を少し回ってしまった。自動ドアを通って中に入ると、骨董商といっても私の思い描いていたような、書や焼き物や古い箪笥などが置かれているのではなく、飴色《あめいろ》に磨かれた洋風のテーブルや椅子、大きな古時計などが並べられている西洋骨董の店だった。  店の奥にある小さな机の前に座って、新聞を読んでいた痩《や》せた五十代半ばと思われる男が、風呂敷包みを抱えた私に視線を送った。 「お電話した宮坂ですけど」  男は頷いて、自分の前にある椅子を手で示した。私は、木目込み細工の施された美しい机の上に風呂敷包みを置いて座った。 「龍涎香をお持ちということでしたね」  店の主は東京のほうの言葉を使った。出された名刺を見ると、『巴堂店主 茂木隆一』と書かれている。茂木とは、高知では、ほとんど聞かない名字だった。きっと県外から来た人だろう。  茂木は丁寧だが、親しみは感じられない態度で一通りの挨拶《あいさつ》をすませると、机の上に置かれた風呂敷包みを興味深そうに眺めた。私は早速、風呂敷包みを解《ほど》いて、灰色の塊を見せた。 「これが、おたくが拾ったという、龍涎香ですか」  店主は、重さを確かめるように両手で龍涎香を持って、四方からじっくりと眺めた。決して愛想のいいとはいえない表情が、龍涎香を前にすると和らいだ。灰色がかった店主のこけた頬《ほお》に皺《しわ》が寄り、皺のような襞《ひだ》に覆われた龍涎香の表面そっくりになった。顔を近づけて眺めるさまは、二つの頭が何か相談事をしているようでもある。 「一度、パリで見たことがありますが、もっと黒っぽい色をしていましたっけ。これは、それより上質のものみたいですね」  パリによく行くのだろうか。私は、この顔色の悪い、ぱっとしない男がそんな華やかな街にいる様子を想像しようとしたが、できなかった。 「龍涎香ゆうたら、フランスで香水を作る時に使うと聞きましたけんど……」 「そうですよ。でも、これがほんものかどうかというと、見た目では判断できないですなあ」  茂木は机の引き出しから白い柄《つか》のついた短刀を取りだした。 「それを確かめるには、ちょっと削って、燃やすのがてっとり早い。いいですか」  一グラムでも惜しい貴重品だ。私は慌てて、待ってください、といった。 「もし、ほんものだとして、いくらで引き取ってくれますか」 「そうですな……」  茂木は風呂敷の上に龍涎香を置いて、両手で顔を覆った。 「九キロばぁあるんです」  私は素早く口を挟んだ。八百万か九百万か。一千万といってくれないかと期待しながら、その口許《くちもと》を見る。茂木は頷いた。 「七十万というところですか」  聞き間違いかと思った。 「七十万ですて」  私は握りしめていた手を開いた。あてにしていた八百万の十分の一にも満たない。 「龍涎香ゆうたら、一キロ百万円が相場ということですが」 「価値というのは、それを欲しがる人があって初めて生まれるものです。欲しがる人が多ければ、それだけ価値は高くなる。その点、龍涎香なんか、今の日本ではまず欲しがる人はいないでしょうね。私が買うと申し出るのも、商売は抜きにしての話なんですよ。売れなくても、自分のコレクションにしておけばいいくらいに考えているからです」 「けんど、フランスの化粧品会社やったら、けっこうな値で買うてくれるとも聞きましたで」  もしかしたら、この男は私から安い値段で龍涎香を手に入れて、フランスに行って高く売り飛ばすつもりではないかと疑った。茂木は私の考えを読みとったのか、皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「よしんば私がフランスにこれを売りに行くとしても、航空運賃、滞在費がかかる。しかるべき人と話をつけるための費用もかかる。手間賃もかかる。そして、相手がいくらの値段をつけてくるかもわからない。フランスにこの龍涎香を売りに行くのは危険が大きすぎますね」  そして、皮肉な表情で私を見て、付け加えた。 「お疑いなら、あなたが直接、フランスに行って、売ってみればいいでしょう」  また、この話に逆戻りだ。海外に一度も行ったことのない私に、そんなことができるはずはない。 「どうなされますか。お売りになりますか」  考えこんでいる私に、茂木は聞いた。  八百万円の見積もりが、七十万円になるのは、あまりにも目論見《もくろみ》ちがいだ。今、すぐにこの値段で売り飛ばす決心はつかなかった。 「ちょっと考えてみます」  私はそういって、龍涎香を風呂敷に包みはじめた。 「まあ、売ることは考えないで、お手元に残されておくのもいいんではないですか。珍しいものにはちがいないのですから。家宝になるかもしれない」  茂木は少しからかうような口調でいった。この神経質そうな店主が初めて見せた陽気さだった。  店を出ると、むっとくる熱気が押し寄せてきた。曇天というのに、アスファルトの路上やビルは熱を帯びている。蒸し暑さが、落胆した神経をさらに苛立《いらだ》たせる。私は、不快な気分になった。  ビルの並ぶ小路を抜けて、帯屋町商店街に出た。アーケードに並ぶ店の前には『サマーセール』とか『大安売り』という看板や垂れ幕がかかっている。タンクトップの下で乳房を盛りあがらせた若い娘や、涼しげに日傘をさしてスカートをひらめかせる婦人、腰をかがめてせかせか歩く初老の女などが、買物袋を手にして行き来している。  私は商店街脇の公衆電話から、三智子に電話をかけた。三智子は、私の短大時代の友人だった。結婚して高知市内に住んでいるが、実家が私の嫁いだ漁村の近くなので、今でも彼女が帰省したついでや、私が市内に出たついでに、年に一、二度の割合で、会っていた。  今日、訪ねていくことは告げてあったので、三智子は家にいた。 「ああ、寿美ちゃん。用事は終わったがかえ」  私は、まあね、と浮かない口調で答え、今、帯屋町にいて、これから家を訪ねると続けた。 「待って、私が行くき。ちょうど買物に出ていかにゃいかんと思いよったところよ。大橋通りの裏の『バローネ』で待っちょってや」  三智子と会う時に、たまに使う喫茶店だった。私は、わかった、と答えて、電話を切った。  一旦、車を駐車しているところに戻るのも面倒だったので、私は龍涎香の風呂敷包みを抱えたまま帯屋町商店街を突っきって、大橋通りの裏に入った。 『バローネ』は、LLサイズの女性向けブティックの二階にある。私はコーヒーフロートを注文して、ため息をついた。  平日の午後だというのに、店内にはけっこう客がいた。ほとんどが女性だ。皆、身ぎれいな格好をして、友人同士、楽しげに話している。中には子連れできている若い母親もいる。私の子供たちが小さい時には、あんな余裕はなかった。パートに出てはいなかったが、姑の目もあったから、子供を放って友達とゆっくりお茶を飲む時間はほとんどなかった。第一、あの村には、しゃれた喫茶店なぞありはしない。  夫の生まれた漁村に住みはじめてからの年月が、私の頭の中を流れていった。記憶のどの部分を切っても、ばたばたと慌ただしくしていただけの十八年。その間に、若かった日々は手元から滑りおちていった。そして私は、少し疲れ、ぼんやりとした四十三歳の女として、今、ここにいる。  コーヒーフロートのアイスクリームはいつか溶けて、薄茶色になっていた。私はグラスの中で小さくなった氷をかちゃかちゃと揺らせた。 「ごめん、待たせたねえ」  元気のいい声がして、目の前に、三智子が立っていた。髪をショートカットにして、ジーパンを穿《は》き、手には造花のついた麦わら帽子を持っている。 「元気にしちょったかえ」  三智子は私の前に座ると、ウエイトレスにアイスティーを注文してから聞いた。 「元気は元気やけど、毎日、ばたばた暮らしゆうわ」  私はさっきまで頭にあったことを告げた。三智子はテニスで陽焼けした顔を、麦わら帽子で扇《あお》ぎながら笑った。 「ほんと、寿美ちゃん、いっつも忙しそうやものね。もうちょっと、ゆっくりしてもええと思うくらい」 「あんたやち子供三人に、舅姑抱えちょったら、そうもいうておれんやろ」 「まあね。私は亭主の面倒を見るばぁでええし、その亭主ときたらしょっちゅう出張でおらんときちゅう。今日やち、それよ。大阪で二、三日、仕事せにゃいかんがやと。ゆうべは会社のつきあいの飲み会で遅かったというに、今朝、一番の飛行機で行ってしもうた」  彼女は早口でいうと、出てきたアイスティーにどぼどぼとシロップを注ぎこんだ。 「ほいで、私はバーゲンに走ろうと思うたところ。夫は仕事に走り、妻はバーゲンに走る。これで釣り合いが取れちゅうというわけよ」 「そういやあ、さっき帯屋町を通ったら、どこもかしこも、バーゲンの看板がでちょったわ」 「寿美ちゃん。せっかく高知に出てきたがやき、なんか買うて帰ったらどうかえ」  いわれてみると、夫や子供の衣類を見つくろっておいてもいいだろうと思った。 「そうやね、ちょっとだけやったら、つきあうわ」  三智子は目を細めると、一気にアイスティーを飲み干した。そして、腰を浮かせかけて、私の隣に置かれている風呂敷包みに目を止めた。 「それ、なんで」  私は龍涎香の入った包みを持ちあげて、小さく答えた。 「夢の残り滓《かす》みたいなもん」  デパートはどこを見ても、安売り商品ばかりだった。克子くらいの若い娘たちから、私と同じ年頃の女。白髪を淡い紫色に染めた初老の女。さまざまな年代の女たちが、楽しげにワゴンの中をひっくり返している。  その活気に、私は一瞬たじろいだ。もう何年もバーゲンのために高知市まで出てきたことはなかった。たいていは、近くの町のスーパーの洋品売場の大安売りに出かけるくらいですませている。  三智子にくっついて、一階から高級ブティックの入った四階まで、洋服を見ていく。確かに垢抜《あかぬ》けたデザインは多いが、デパートだけあって、スーパーの大安売りの商品より値段はずっと高い。子供も義理の両親もいない三智子とはちがい、私には手の出ない高級品だと思っていると、彼女が私を呼んだ。相談事かと近づいていったら、いきなり水玉模様のワンピースを突きつけられた。 「ほら、これ、寿美ちゃんにぴったりで」  胸元がかなり開いている。私はかぶりを振って、洋服を押しやった。 「いやちや、こんな若作りのデザイン」 「どこが若作りで。ほら、見てみや」  三智子に引きずられるようにして、鏡の前に行き、服を体にあてた。いわれてみると、似合わないこともない。ジョーゼツトの柔らかな生地に、自分の丸顔が可愛《かわい》らしく映る。 「そうやねぇ」  少し気をそそられて値段を見ると、バーゲン価格で二万二千円だ。私はどきりとした。普段、買っている服の倍以上する。 「ほら、半額。お買い得やわ」  夫婦二人所帯で金銭的に余裕のある三智子は嬉々《きき》として勧める。だけど二万二千円という金額は、私にとっては大金だ。しかし、そのことを短大時代の友人に告げるのはばつが悪かった。 「うん。でも、もっと別のもののほうがええわ」 「ほいたら、これはどうかえ」  三智子は今度は、淡い褐色の麻のワンピースを取りあげた。貝の形をした白いボタンが一列についている。私の好きなデザインだった。 「あら、ええねえ」  思わず、手が出ていた。三智子からハンガーごと受け取って、素早く値札に目を走らす。一万八千円。さっきのよりは安い。 「似合うで、寿美ちゃん」  三智子の言葉に乗せられて、鏡の前で服をあててみた。 「試着してみたらええじゃいか」  鏡をじっと覗《のぞ》きこんでいる私に、三智子はいった。 「ほら、それ持っちょいちゃるき」  三智子が私のハンドバッグと風呂敷包みを取りあげた。服を手にしている私の背中を、試着室のほうに押した。 「いやちや、みっちゃん」  そういいながらも、私の足は試着室に向かっていた。  試着だけだ。もし似合ったら、似た形の洋服で、もっと安いものを見つけて、買えばいい。自分にそういい聞かせて、私は試着室に入ると、服を着替えた。  今日、着てきた黄色のスーツも悪くはないと思っていたのに、試着室の鏡に映る麻のワンピースを着た私と比べると、とても野暮ったいものに思えた。その洋服は、私を上品な奥さんに見せてくれる気がした。芝生の広がる庭と、出窓のついた家に住む主婦。昼間は、友達と喫茶店でお喋《しやべ》りして過ごし、日曜日には家族一緒にレストランに食事に行く生活をしている女。ここにいるのは、魚の臭《にお》いにまみれて、毎日、パートや家事にてんてこ舞いしている女ではない。  私は服の裾《すそ》を持って、ひらひらさせてみた。長めのスカートが波のように揺れ、波間に漂う龍涎香の塊が頭に浮かんだ。  五千万円の夢が萎《しぼ》みに萎み、ついに七十万円になってしまった龍涎香。結局は、鯨の糞なりの価値だった。  あてにしていた大金から比べると、はした金だ。いいじゃないか、七十万円、自分のために使っても。私が拾ったものなのだ。  どんぶり、どんぶら、どんぶらこ。  いつか夢に見た呑気《のんき》な波の音が、私の体内で大きくなっていった。  財布のお金をはたいて、ワンピース一着、サマーニットのアンサンブル、バッグと靴まで買い、龍涎香の風呂敷包みを片手に店巡りを終えた時には、あたりは暗くなりはじめていた。鬼灯《ほおずき》に似た夕日が、ビルの谷間に挟まっている。太陽を照り返して、空も雲も、赫々《あかあか》と染まっていた。 「いかん。早いとこ戻らんと、遅うなってしまう」  慌てる私に、やはりバーゲンの買物包みを両手に抱えた三智子はあっさりといった。 「今から帰ったち、向こうに着くんは九時か十時になってしまうで。夜、遅いと、あの辺の海辺の道は見通しがきかんで怖い。今晩は帰るのはやめて、うちに泊まっていったらええやいか」 「そんなん、できんわ。うちの旦那《だんな》さんは朝早うから海に出ていかにゃいかんがで」 「朝早う起きることらぁ、一人でもできるやろに」  三智子は、青白い照明の灯った帯屋町商店街を歩きながら、鼻先で笑った。 「けんど朝ご飯が……」 「猫や犬じゃあるまいし、旦那さん、自分でご飯の用意もできんがかえ」  三智子はますます馬鹿にしたようにいう。それ以上いうと、恥をさらすような気がして、私は黙ってしまった。  実際、夫の朝食なぞ、どうにでもなる話だった。これまで里帰りしたりして、私がいない時、夫は一人で朝食を食べて漁に出ていた。克子も清も、もう大きいし、今は夏休みだ。朝食は姑に手伝ってもらえば、自分たちで準備できるだろう。舅の薬は、克子に頼めばいい。 「今晩はゆっくりしていきや、寿美ちゃん。毎日、身を粉にして働きゆうがじゃも、たまには家から解放されて、のんびりしたらええじゃいか」  三智子ははしゃいだ声で誘った。 「おいしい店があるがよ。和洋折衷の料理だしてくれて、お酒もなかなかおいしいところ。そこに連れてっちゃおき」  夜、友達と外でゆっくり酒を飲む。そんなことをしなくなって、十八年が過ぎてしまった。  私はネオンの輝きだした街を眺めた。会社帰りの男女が、これから飲みに繰りだすのか、商店街の横に縦横に延びる路地に吸いこまれていく。 「そうやねぇ……」  一日くらいいいではないか。一日くらい、のんびりさせてもらってもいいだろう。パートも、もう一日、休ませてもらえば問題はない。食堂に電話しておけば、すむ話だ。  私は、龍涎香の入った風呂敷包みを握りしめた。     五  ぶぅぅうん、というエアコンの音で目が覚めた。  一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。ひんやりとした暗い部屋に、私は寝ていた。窓のカーテンの隙間《すきま》から漏れてくる微《かす》かな光に、染みひとつない薄茶色の壁や、白い化粧板のついた洋服|箪笥《だんす》が見えた。ここはどこだろうと訝《いぶか》りながら横たわっているうちに、三智子の家に泊まったことを思い出した。  昨日、買物をすませて、三智子の家に着くと、早速、家に電話した。その晩は帰らないと告げると、夫は龍涎香のこともあって不機嫌だったが、夜道で事故を起こしたくはないと言い訳すると、渋々承知してくれた。私は、それ以上、機嫌を損ねたくなかったので、骨董品屋に持ちこんで七十万と見積もられたことは黙っていた。次に克子を出してもらい、あれこれ細々したことを頼んだ。自分のことしか考えていないと思っていた娘が「わかった、まかせちょいて」と、しっかりした口調で答えたのは少し驚いた。  不意に外泊を決めるなんて、これまでしたことはなかった。しかし、電話をかけ終わってから、さほど難しいことではなかったと気がついた。自分が家にいなくても、なんとかなるものなのだ。私は今まで、家族に必要とされていると信じたかったのだ。だから自分で自分を家に縛りつけていたのだ。  昨夜は、三智子と一緒にしゃれた料理屋に行って、ご馳走を食べた。けっこうな値段になっただろうに、三智子はつきあってくれたお礼だといって、おごってくれた。それから、彼女の行きつけのスナックに行き、家に帰ってから、また飲んだ。結局、寝たのは二時過ぎだった。  いつもなら、夫と一緒に起きだす時間に、蒲団《ふとん》に入って眠りにつくのは不思議な感じだった。こうして朝、陽が昇るまで、ゆっくりと横になっていられるのはひさしぶりだ。  二年前に購入したばかりの三智子のマンションは、まだ新築の匂いがした。夏だというのにひんやりしていたのは、エアコンが効いているせいだった。  子供の声や、舅や姑の気配。塀を越えて聞こえてくる隣家の人の会話。そんなものがいっさいない、静かな家。こんな生活もあるのだな、と私は思った。  枕元には、店の名前の入った買物袋が置かれている。私は横になったまま、中から服を引きずりだした。  手で撫《な》でて、さらさらした麻の感触を楽しむ。これに身を包んで歩く姿を想像し、嬉しさと、大枚使ってしまったことへの罪悪感が同時に湧《わ》いてきた。  私は部屋の隅にある風呂敷包みに目を遣《や》った。  七十万円。夫はさぞかしがっかりするだろうが、こうなったら、一家で温泉旅行でもして、ぱあっと散財したらいい。その時には、この新しい洋服を着て、靴を履き、バッグを持つのだ。  自分の好きなものを買ってしまったせいか、龍涎香を売った金はすべて家族のために使ってもかまいはしないと思った。  廊下のほうから、がたがたと音がした。三智子が起きだしたみたいだった。私は蒲団から抜けだすと、彼女に借りたパジャマ姿のまま部屋を出た。 「おはよう」  白いシステムキッチンの入った台所で、三智子は腫《は》れぼったい顔をこちらに向けた。手には、水を入れたコップを持っている。 「ゆうべ、飲みすぎたみたいやわ」  三智子はそういって、一息に水を飲んだ。  壁にかかった三角形の時計は、十時を示していた。もう夫は漁から戻った頃だろうと頭の隅で思いながら、「そう、私は平気で」と応《こた》えた。 「うちの亭主、お酒、全然飲まんき、私もついつい弱うなってねえ」 「あら、そうやの」  色々、酒場を知っているようだったから、夫婦でちょくちょく飲みに出ているのかと想像していた。三智子はコーヒーを淹《い》れながら頷《うなず》いた。 「ほんと、一緒におったち、つまらん男。私が仕事持っちょったら、離婚しちゃるところやけど」  私はまじまじと三智子の顔を見た。二日酔いで眠たげなその表情からは、本気か冗談なのか、よくわからなかった。三智子自身もよくわかっていないのかもしれない。彼女はコーヒーを私の前に置くと、自分もカップを手にして、隣の居間の窓辺に立った。 「あんたんとこ、旦那さんと夜のこと、まだあるかえ」  三智子がぽつんと聞いた。急に、そんなことを聞かれて、私はうろたえた。 「まあ……そこそこには……」  私は顔を赤らめた。若い頃ほど頻繁ではなくなったが、二か月に一度ほど、夫が私の蒲団にもぐりこんでくることがある。だけど、それはもう特別に意識することでもなくなって、私も夫も、喉《のど》が渇いたから水を飲むという程度の行為になっている。 「うちはね、ここ二年、なんもないがよ」  三智子は、私のほうに横目を走らせた。 「時々、このまま、もう男の人となんもせんで一生終わるんじゃないかと考える。特に、あの人が出張でおらん時、こうして一人で家におると、このまま私は干からびてお婆《ばあ》さんになってしまうと思うて、怖うなる」  人の気配もない静かな家。一人きりで、二日も三日も放りだされていたら、そういう気分になるのかもしれない。  夫に三人の子供、おまけに舅姑。人の気配が満ちた家で賑《にぎ》やかに暮らしている私には、三智子の気持ちはわからない。私の不満は三智子みたいに、何かがない、という空虚感ではない。子供の問題、舅や姑の病気、夫の世話。いろんなことがありすぎて、困っているくらいだ。  人生、誰にとっても、不公平であり、不公平であるがゆえに公平なのだ。熱いコーヒーを啜《すす》りながら私は考えた。子供がいなくて、気ままに暮らしているはずの三智子も、胸に不満を抱えている。うわべはどう見えようが、その人の持ち札をひっくり返したら、どれも似たようなもの。誰もが大なり小なり、不満を抱いて生きている。 「厭《いや》な天気やわ」  話題を変えたくなったらしく、三智子がいった。  それで初めーて、外は雨が降っているのに気がついた。  私もカップを持ち、居間の大きなソファを回りこんで、窓辺に行った。うっすらと曇ったガラス窓の向こうでは、かなり強い雨が降っていた。屋根に弾《はじ》かれた雨粒が、白い霧のように建物を包んでいる。 「ゆうべ、寝る時はまだ降ってなかったにねぇ。いつから雨になったがやろう」 「さあねえ。家の中におったら、なにもわかりゃせんき」 「私の家は、ここと違うておんぼろやき、すぐわかるで。雨やったら、屋根からばたばた、えらい音がする」  そういって笑った時、居間の電話が鳴った。三智子が受話器を取って、すぐに私に渡した。 「克子ちゃんで。なんやら慌てちゅうみたいやけど」  舅の薬が見つからないとか、清と喧嘩《けんか》したとか、その程度のことだろうと想像しながら受話器を受けとると、克子のおろおろした声が耳に飛びこんできた。 「お母さん、……えらいことになった」  ただの困り事ではない。不安な予感が、全身を貫いた。 「お父さんの船が遭難した」  娘はそう告げて絶句した。私は受話器を握りしめたまま、いつかまたこういう時が来るような気がしていたと、心のどこかで思っていた。  村までの二時間近い距離、ひたすら車を走らせている間、頭の中でさまざまな想いが浮かんでは消えた。  夫は今朝早く、いつものように出かけていったという。私がいなかったから、自分でご飯をよそって、一人で食べて出ていった。その時はまだ雨は降ってはいなかったが、低気圧の近づいている気配はあった。しかし、海が荒れだす前に帰れると踏んだらしかった。このところ大漁が続いていて、いとこの勢二も友甫も海に出たがっていたことも、出漁に拍車をかけたらしい。  私のせいかもしれない。  雨の飛び散る道路を睨《にら》みつけ、私は胸の中で呟《つぶや》いた。  私が昨夜、家に戻らなかったから、私が朝ご飯の支度をしてあげなかったから、夫の調子が狂ってしまい、天候を読み間違えたのだ。  だけど、まだ港に帰ってないというだけだ。天候が悪くなったので、どこかの入り江に避難しているのかもしれない。この前の遭難時のように、大破しても通りがかった漁船に拾われることもある。夫がぴんぴんしていることは充分考えられる。  頭の中で、悲劇的な気分と、楽観的な気分がいたちごっこのように駆けめぐる。家に辿《たど》りつくまで、スリップ事故を起こさなかったのが不思議なほど、うろたえつつ全速力で帰った。  山道から村が見えるところに出た時には、雨足は弱まっていた。谷間に灰色の瓦屋根の並ぶ村は靄《もや》に包まれ、いつも通りの平穏さをたたえていた。  克子の電話は間違いであったのではないか。遭難の報せは、誤報だったのではないか。一縷《いちる》の希望に縋《すが》りながら、家の前に車を止めた。  雨に濡《ぬ》れた玄関の戸を横に滑らせると、三和土《たたき》には靴がびっしりと並んでいた。黒い長靴が多いのが不吉に見える。  やはり遭難の報せは現実だったのだ。胸に鉛の塊を抱えた気分で茶の間に顔を出すと、そこに夫や舅の漁師仲間が集まっていた。隣町に住んでいる、夫の弟の雄介の顔もある。中央で舅と姑が肩を寄せあっていた。隣の台所の椅子《いす》には清と克子が座り、流しには夫の妹の俊江と、雄介の妻の和子が立ち、麦茶をガラスのコップに注いでいた。 「おお、寿美さんがもんてきた」  茶の間の入口に立っていた私に気がついた、漁師の一人がいった。私は慌ててお辞儀をして、部屋に入った。 「すみません、こんな時に留守にしちょりまして」  私は人の輪の中に膝《ひざ》を進めて謝った。 「いや、おったち、なんもできゃあせん。今、雨も弱まってきたき、船を出して探しゆうところや」  漁協の森さんが気の毒そうに声をかけてくれた。 「さっき入った連絡によると、一緒に船に乗っちょった勢二さんと友甫さんは、海に浮かびよったところを助けられたと。なんでも船が時化《しけ》で座礁して、乗組員はみんなぁ海に放りだされたということじゃ」  どんぶり、どんぶら、どんぶらこ。  私の脳裏に、波間を漂う夫の姿が浮かんだ。いや、それは夫ではなく、龍涎香だったろうか。 「寿美さん、あの恵比須さまはどうした」  突然、舅が私を振り向き、大声で聞いた。麦茶を盆に載せて茶の間に出てきた克子が、私に小声で告げた。 「お爺《じい》ちゃん、お父さんの遭難は、恵比須さまが神棚にないせいやゆうてうるさいがよ」  姑が私の膝に手をあてて揺すった。 「寿美さん、お爺ちゃんの気がすまんき、あの恵比須さま、早う神棚に上げちゃってや」  私は、わかったから、と安心させるように舅に答え、克子に、車の中にある龍涎香を取ってくるように頼んだ。そして、いつまでも茶の間に座っているのも気が引けて、台所に行った。流しで洗い物をしてくれていた俊江と和子に礼をいい、心配して家に来てくれている人々に出す茶菓子を用意しはじめた。 「勝彦さんのことじゃき、大丈夫とは思うけどの」 「そうよ。雨も上がったら、どこぞの海岸に泳ぎついたゆうて、ひょっこりもんてくるじゃろうち」  人々が、気休めの会話を交わしている。彼らのいう通りだったら、どんなにいいだろうか。  私は台所の棚から落花生や煎餅《せんべい》を入れた缶を下ろして、盆に盛った。俊江が、茶の間に座っているようにいってくれたが、何かしているほうが気が紛れた。じっとしていると、また家を空けたことの罪悪感に襲われそうだった。 「はい、お爺ちゃん」  克子が龍涎香の風呂敷包みを持って茶の間に現れると、舅の前に置いた。舅はもどかしげに包みを解《ほど》き、雄介に差しだした。 「恵比須さまを、早う神棚に」  雄介がいわれた通り、神棚に龍涎香を据えると、舅は手を合わせてぶつぶつと祈りだした。  その場にいた者は、祈る者の隣で話を続けるわけにもいかず黙ってしまった。舅の真似をして、しおらしく龍涎香に祈りはじめた漁師もいる。さっきまで騒がしかった茶の間は、静まりかえってしまった。 「お母さん、いっぱい買物したがやね」  台所に戻ってきた克子が耳許《みみもと》で囁《ささや》いた。私は慌てて周囲を見回した。幸い、娘の言葉は、俊江や和子には聞こえなかったらしくて、ほっとした。こんな時に留守していたばかりか、バーゲンに走っていたなどとは、あまりに不謹慎に思えた。  しかし、克子はしつこく聞いてくる。 「ねぇ、私にもなんか買うてくれた」 「しっ、黙っちょきや」  私は慌てて叱《しか》った。買物は自分のものだけだったことが後ろめたかった。 「宮坂さん、宮坂さんっ」  玄関から緊迫した声が響いた。  夫に関する報せだ。私は廊下に飛びだした。玄関口に、村の消防団員の紺の制服を着た男が立っていた。緊急時でない時は、米屋を営んでいる増田だった。濡れててかてか光る黒い長靴で、私のほうに一歩、近づくと一瞬、顔をくしゃりと歪《ゆが》めた。 「旦那さん、見つかりました」  増田は人形が喋《しやべ》っているように一本調子の口調で続けた。 「友が鼻の岩場に……遺体で上がっちょりました」  私は手で口を覆った。全身から血が下がっていき、その場に崩れおちそうになった。 「大丈夫かえ、寿美さん」  いつの間に来たのか、和子が後ろから、私の肩を支えてくれた。私は言葉もなく、かぶりを振って、両足を踏んばった。そして、玄関の乱雑に散らばった靴の間で困ったように立っている増田を、ぐっと見つめ返した。 「そうですか……。お世話をかけました」  大きな声でいったつもりなのに、出てきた声はかすれていた。 「今、遺体を家に運んできますき」  増田は紺色の帽子の縁に手を遣《や》って、ぺこりと頭を下げると、その場にいたたまれないように踵《きびす》を返した。  私はゆっくりと玄関に背を向けた。茶の間の入口から、人々の顔が覗《のぞ》いている。皆、この不幸に当惑した表情で、かける言葉もなく私を見守っている。  和子が、力づけるように私の背中を押した。 「これからのことは、私らでするき、寿美さんは休んじょりや」  その言葉も半ばうつけた状態で聞き、私はよろよろと茶の間に戻った。  茶の間では、姑が背中を丸めて泣いていた。母親の肩を抱いている俊江も一緒にハンカチを目にあてている。あぐらをかいて座った舅は、腕組みして目を閉じて、悲しみをこらえている。私は茶の間の壁に背中をつけてへたりこんだ。  そこに詰めていた人々が動きだしていた。皆、口の中でもぞもぞと「気の毒なことになったのお」とか「通夜にまた寄らせてもらいますき」などと呟《つぶや》きながら、玄関に流れていく。雄介と和子は、これからのことを話しているのか、頭をくっつけ合うようにしてぼそぼそと話している。克子と清は怯《おび》えた表情で、台所に立ちつくしている。  しっかりしなくては。私は、この家の主婦なのだ。いつも元気で、しっかり者の四十三歳の女。私は自分にいい聞かせると、立ちあがった。背筋を伸ばして、お腹に力を入れる。それで少し気持ちがしゃんとした。  まずは、家に運ばれてくる夫の遺体を横たえる蒲団《ふとん》を出さなくては。白装束の準備ができるまでの浴衣《ゆかた》も必要だ。確かどこかに、まだ新しい浴衣があった。  現実的なことで頭をいっぱいにすると、悲しみや、後悔や、さまざまな想いにとりつかれないですむ。私はやるべきことを心の中で必死に復唱しながら、茶の間の出口へと向かった。 「ほんまに、むごいことよの」  廊下に出ていきかけた時、玄関先で靴を履いている人の話し声が聞こえた。 「おうおう、勝彦さん、恵比須さまのおかげで、また船を持てると喜んじょったのにの」  漁協の森の声だ。上がり框《がまち》に腰かけていた漁師仲間の高津が、靴の紐《ひも》を結びながらいった。 「残された奥さんも子供さんもかわいそうに」  森は角刈りの頭を頷《うなず》かせた。 「勝彦さん、漁協で生命保険をかけちょったき、五千万ばぁのお金はおりる。当面はそれでやっていけるろうがのう……」  五千万円。  思わず、戸口の柱に手を突いた。  龍涎香を拾って、最初に夢みた大金の額と同じだ。  心臓を冷たい手でぎゅっと握りしめられた気がした。  私は首を捩《ねじ》って、茶の間を振り返った。海から浮かんだ泡のような龍涎香が祀られている神棚に目を遣った。  御神酒《おみき》の杯《さかずき》に供えられた杉板の棚の上に載っていたのは、灰色の顔だった。丸々とした頬《ほお》に皺《しわ》を寄せて笑う老人の顔。  神棚の上では、恵比須が大きな口を開けて、げらげら笑っていた。  葛橋     一  東方の山の端が蒼白《あおじろ》く闇《やみ》に滲《にじ》んでいた。私は腕組みをしたまま、ダウンコートの中で奥歯を噛《か》んだ。谷底から湧《わ》きあがってくる川のせせらぎのせいだろうか、寒さが一段と増した気がする。  目の前にそそり立つのは、一枚岩にも似た山の斜面だ。山肌にはうっすらと雪が積もっている。陽のあたる尾根の部分は土の色が透けて見えるが、谷間の雪は厚い。谷の形をなぞって浮きあがる白い雪は、山の骨を思わせた。  山の骨も、焼いたら、ほろほろと崩れるのだろうか。何時間も焼却炉で炙《あぶ》られた人の骨のように。ふとそんなことが頭に浮かんだ。私は背中を丸めて足踏みをはじめた。長靴の底から押しつぶされる霜柱の悲鳴があがる。  子供の頃、冬の登校途中に、道や畑の縁に決まって霜柱を見つけた。黒い土を精一杯支えている半透明のすべすべした小さな柱の上に靴を置いて踏みつけた。潰《つぶ》されまいと氷の柱が抵抗する。それを靴の底でぐいぐいと押し潰していく感触が好きだった。  何年ぶりだろう、霜柱を踏んだのは。東京では、足の裏を押し返すのは、いつも硬いアスファルトだ。抵抗を止《や》め、人間の力の前にひれ伏した大地。 「ぼちぼち、はじめろうかのおし」  嗄《しやが》れ声《ごえ》に、私は首を捩《ねじ》った。大根畑の縁で焚《た》き火《び》が燃えている。その周囲に十人前後の男たちが集まり、軍手を嵌《は》めた手を火にかざしていた。 「おお、もうええ頃合いじゃろう」 「やろう、やろう」  男たちの輪が崩れ、それぞれ足許《あしもと》に置いてあった鍬《くわ》を取りあげた。 「竜介、おまんも鍬持ってこい」  動きだした人の間から父の声が飛んできた。私は地面に横たえていた鍬を拾い、大根畑を横切って、男たちに近づいていった。  焚き火に照らされた彼らの顔は、どれも深い皺《しわ》が刻まれている。近所の主立った農家の戸主たちで、ほとんどが老人といっていい年齢だ。この中では、三十歳半ばの竜介が最も若かった。 「この辺やったのおし」  耳あてつきの帽子をかぶった父が焚き火の横の地面を指さした。他の者が、そうだ、そうだ、と頷《うなず》いて、その付近に輪になると、鍬で土を掘りはじめた。  長年、百姓をしてきた男たちだ。鍬を動かす手は慣れている。手早く膝《ひざ》までくらいの深さの穴を掘ると、近くに置いてあった一輪車の荷台から、子供の背丈ほどもある松の枝を運びだした。それを穴の中に立てて、鍬で土をかける。 「竜介、おまんもちったぁ手伝え」  父の声に私も男たちの中に入ると、鍬の刃に土を盛って松の根本に運ぼうとした。しかし手許が狂って刃が傾き、ざらざらと土がこぼれ落ちた。 「都暮らしで、鍬の持ち方、忘れたかや、竜ちゃん」  からかい声が飛んできた。ばつの悪さを隠して、私は冗談めかして言い返した。 「こんでも昔、家の手伝いで畑仕事をしよった時は、鍬らぁ目を瞑《つむ》っても動かせたもんじゃったに」 「ようゆうわ、竜介。手伝うにゃあ手伝うてくれたが、途中でだれこけてしもうて、鍬放りだして逃げてしまいよったじゃいか」  父の応酬に、周囲に穏やかな笑いが渦巻いた。手拭《てぬぐ》いを頬《ほお》かむりした隣家の老人が頷いた。 「ほんまに今の若い衆《し》は辛抱がないきのお」  ——この大事な時期に、仕事を途中で放りだすつもりか、三宮君。  一昨日《おととい》の課長の不機嫌な声が脳裏を過《よぎ》り、私は心臓に冷たい刃《やいば》をあてられたようにひやりとした。  課長の怒りはよくわかった。このところじりじりと株の下落が続いている。いつ何が起きるかわからない状態だ。そんな時期に一週間も休みを取りたいといいだしたのだ。  ——休みなら、正月があっただろう。年が明けてひと月過ぎたか過ぎないかというのに、どうしたというのかね。独身貴族で遊び足りないという身でもないだろう、そんな無責任な仕事ぶりでは奥さんも泣く……。  機関銃のように小言を連射していた課長の口の動きがぴたりと止まった。そして私に後ろめたそうな一瞥《いちべつ》を送ると、口調を和らげた。  ——まあ、いいだろう。一週間くらいゆっくりしてきたらいい。どこかに行く予定か。  帰省するつもりです、と私は答えた。実際は何の計画があったわけでもない。休みが欲しかったのは、会社に来たくないという単純な理由からだ。一日中、電話をかけまくり、相場の上がり下がりにぴりぴりしながら、口先巧みに客に株を勧めて過ごし、夜遅くに家に戻る。がらんとした新築の家で風呂に入り、綿のように疲れた体を冷たいベッドに横たえる毎日が、叫びだしたいほど厭《いや》になった。会社を休まないと死んでしまうとすら思ったのだ。  課長には帰省するといったものの、まだ決心していたわけではなかった。それでも家に戻り、さて、どうやって休みを過ごすかと想いを巡らした時、私は行き詰まった。今年の正月は家にこもりっきりで気が塞《ふさ》いだだけだったから、もうその轍《てつ》は踏みたくはなかった。かといって、旅に出るにも宿の予約や時刻表を調べたりすることが億劫《おつくう》だ。ああでもない、こうでもないと考えた挙げ句、行き場のない心を抱えて、私はやはり故郷に戻ってきたのだった。 「これでよし、と」  毛革の羽織を着た杉作という男が、松の木の根本を埋めた土を踏みしめていった。青々とした葉を突きだした松飾りは、黒い地面にすっくと立っている。他の者たちが一輪車から茅《かや》の穂を取りだして松の枝に括《くく》りつけ、葛《かずら》で作った輪を掛けた。最後に地面に餅《もち》と干し柿と種を置いていく。作業を続ける男たちの吐く息は、早朝の空気に白く凍っている。 「おお寒い、火の傍《はた》を離れるともういかん」 「無理もないち。旧の正月ゆうたら、一年で一等寒い頃合いじゃき」 「よりによってこんな時季に、鍬初めをせにゃいかんとは難儀なもんじゃ」 「そんな罰あたりなこというたらいかんちや。作物の出来が悪うなるぞ」  誰かの叱責《しつせき》に、松飾りの周囲のぼやきは止まった。  鍬初めとは、年の最初に豊作を祈願して畑に鍬を入れる儀式だ。旧暦正月二日に村の部落の中心的な農家の畑で行われる。高校進学のために十五歳で村を離れ、高知市に下宿するようになった私は、鍬初めの儀式に参加したことはなかった。帰省したばかりの昨日、父からそのことを聞き、興味を覚えてついてきたのだった。だが一年の初頭の重大な儀式が大根畑の隅で穴を掘る程度のことだとわかると、がっかりしてしまった。これなら蒲団《ふとん》の中でぬくぬくと寝ているほうが利口だったと後悔していた。  山際から赤錆《あかさび》色の太陽が頭を覗《のぞ》かせた。男たちは松飾りを中心に輪になると、東方を向いた。朝日が昇るに連れて、谷底まで整然と続く段々畑が薄闇の中から姿を現す。ほとんどは茶畑だ。蒲鉾《かまぼこ》型の植え込みの列のあちこちに霜除《しもよ》けの扇風機をつけた柱が立っている。険しい斜面に縦横に縞模様《しまもよう》をつけている茶畑は、谷底近くになると去年の稲の切り株の残る水田へと変わっていく。  父が一升瓶を傾けて、酒をとくとくと畑の土に注いだ。酒を吸いこんだ地面に、一升|枡《ます》に入れた大豆を振りまく。 「一粒万倍 一粒万倍」  父が唱える。 「朝ぼらに声をならせよ  ならさぬ声は寝声なり」  他の男たちが歌を唱和しながら、大豆の散らばった地面に鍬を入れはじめた。鍬が土に喰《く》いこみ、地面が心地よげな呻《うめ》き声をあげる。 「一粒万倍 一粒万倍」  呪文《じゆもん》のように唱えながら、父が大豆を撒《ま》き、輪になった男たちが土に鍬を入れつづける。私も鍬を動かしながら、皮肉なものを感じていた。  一粒万倍。それこそ私が追いかけてきたことだ。村の男たちのやっていることと違うのは、私の植えた粒は植物の種ではなく、金の粒というところだった。  ——この会社の株、今のうちに買っておいたほうがいいですよ。将来、伸びそうですからねぇ。長い目で見れば、何倍かになって戻ってきますよ——銀行の利子は下がる一方だし、景気もどうなるかわからない。確かに株はリスクもありますが、儲《もう》かる時は儲かりますからね——。  私もまた一粒万倍の呪文《じゆもん》を唱えて、甘い言葉を撒きちらしてきた。そこから実りを得た者もいたし、大損して私を恨んだ者もいた。私はそのことに何の疑問も覚えず、一粒万倍の呪文を唱えつづけてきた。人生、良いことも悪いこともある。私の言葉に乗って損をした客は運が悪かったのだし、得した客は運が良かったのだ。そう割り切ってきた。  父が一升枡を逆さにして、底を叩《たた》いた。 「ほぅほぅほぅ」  男たちが頬《ほお》をすぼめて、奇妙な声を上げはじめた。梟《ふくろう》に似た声が朝靄《あさもや》に消えていく。それは薄闇の漂う山襞《やまひだ》の間に滲《し》みわたり、遥《はる》か遠くに消えていく。  ほぅほぅほぅほぅぅ……。  冷たい朝の空気を伝い、男たちの声は幾重にもなって響きわたる。 「神様にわしらのことを気づいてもらわにゃいかんがじゃ。おまんも手伝え」  空になった一升枡を手にして父が囁《ささや》いた。私は口を開いたが喉《のど》が強《こわ》ばり、うまく声がでない。「ほっほっほっ」と猿のような声を出しているうちに儀式は終わり、皆は一輪車へと引き揚げはじめた。最初から最後までこの儀式から弾《はじ》きだされたような、不燃焼な気分を味わいながら、私は一同に従った。  鍬を一輪車の荷台に戻して、代わりに酒や肴《さかな》の入った風呂敷包みを持って、焚き火のところに戻る。火を囲んでのささやかな宴《うたげ》がはじまった。 「種は撒いた。後は土がよけりゃあ、一粒万倍」 「わしらが精だいて耕してきた畑の土ぞ、古女房みたいにええに決まっちゅう」  卑猥《ひわい》な隠喩《いんゆ》を交えて労をねぎらいながら、男たちは茶碗《ちやわん》に注いだ冷や酒を啜《すす》り、干し柿や餅や、大根の煮付けをつまんでいる。故郷の行事のことなぞまったく知らない私は会話に加わることもできず、黙々と食べていた。酒が凍った胃の底を温めてくれることだけがありがたかった。 「今年の鍬初めに竜ちゃんが出てくれてよかったのお、栄さん」  鼻の赤い、友太郎という男が父に話しているのが耳に入った。父はちらりと私を見て、まあな、と呟《つぶや》いた。友太郎は酒を啜ってから、頷いた。 「若い衆にも村のことを知っちょいてもらわんと、わしらが死んだらそこでおしまいになってしまうきのお」 「東京住まいの竜介が鍬初めのことを知ったち、なんちゃあにならん」  父が放り投げるようにいった。そこに非難めいたものを感じて、私の心の皮が硬くなった。  三宮家は村の旧家だ。土地も多く所有している。しかし跡継ぎであるはずの兄の尊幸は会社員となり、弟の私は東京に出た。農業は父の代で終わりだろう。もっともそれは私の家だけのことではない。徳島との県境に位置するこの寒村に戻ってくる若者はほとんどいない。 「ほら、これでも食べてみや、竜ちゃん」  隣家の老人が竹串に刺して火で炙った里芋を差しだした。老人は、里芋にかぶりつく私を見守りながら、感慨深げにいった。 「今時の者の口にゃ合わんじゃろうが、わしらぁ、こんまい時にゃ、そんなもんがご馳走じゃったもんよ」  私の向かいにいた禿頭《はげあたま》の男の膝《ひざ》を叩いた。 「まっこと世の中、変わったもんじゃ。わしゃあ二十歳になるまで海ゆうものを見たことがなかった。初めて見たがは徴兵されて高知市に出ていった時じゃった。軍隊にゃ、山奥から出てきたわしみたいな者は河原の石ばあおったもんよ。それがたまぁ、今じゃ誰でも海外に行きゆうが」  誰かが、友太郎までハワイに行ったがやきのぉ、と茶々を入れ、友太郎が「ハワイゆうたち、テレビで見たんと同じじゃった」と答えて笑いを誘った。 「ほんとにのお、電気がついたのも戦後のことやったきの。それまでは、どっこの家も石油|洋燈《ランプ》を使いよった」と禿頭の男が話を元に戻した。石油洋燈のことは、私も覚えていた。私が生まれた時にはとうに電気は通っていたのだが、それでも家の納屋には洋燈が下がり、時に使われていた。 「今は何でも店で買えるけんど、昔は味噌《みそ》もこんにゃくも自分くで作ったもんやった。そういやぁ雪隠《せつちん》紙もなかったで。紙の代わりに、唐黍《とうきび》の皮を使いよった」 「そうそう、あれを一枚一枚、揉《も》んで柔らこうするがが面倒《めんどう》でのおし。そんなことしてもたいして水を吸うてくれやせんき、びち糞の時にゃあ手首まで糞の汁が垂れてきてのお」  老人たちは歯の欠けた口を大きく開いて笑った。  糞の話を聞きながら、ねたねたした里芋を食べるのは難しい。しかし皆の手前、残すわけにはいかない。私は竹串に残った里芋にかぶりついた。里芋が喉につかえて咳《せ》きこんだ。 「腹も温うなったし、ぼちぼち行くかや」 「おお、おお。あんまし呑《の》みよったら、陽が暮れるわ」  冗談口を叩きながら、皆、腰を上げはじめた。長靴で焚《た》き火《び》が消され、白い煙が立ち昇っていく。あたりはすっかり明るくなっていた。薄く雪をかぶった寒々とした山間の村の風景が浮かびあがる。綾織《あやおり》模様のような畑の畝《うね》の刻まれた斜面に、点々と農家がへばりついている。家鶏《にわとり》の声と小鳥の囀《さえず》りが村を包み、谷川に沿って続く道路を軽トラックやバイクが三、四台走っている。村はすでに目覚めはじめていた。  男たちは各自の鍬を担いで、大根畑を出ていった。最年少の私が、一升枡や酒瓶、重箱など儀式に使った用具を入れた一輪車を押す役だ。車を押して、畑の中に続く狭いでこぼこ道を慎重に降りはじめた時、すぐ前にいた父が慌てたようにいった。 「いかん、忘れるとこじゃった」  父は畑に立てたままの松飾りに走り戻ると、木につけていた葛の輪を取ってきて、一輪車の上に載せた。そして私の視線に気がついて、田植えの初日の、おさばい様の儀式の時にも使うのだと説明した。 「なんでまた葛だけ使いまわしするがで」  父は白い眉毛を寄せて、「そんなこと、知るもんかえ」と興味なさそうに答えた。 「昔からの祭りのしきたりがそうなっちゅう。それと違うことをすると、神様が怒るきのおし」  石油洋燈から電灯に変わっても、この村の者たちはまだ神様のご機嫌を伺いつつ生きている。  私が今まで機嫌を伺ってきたのは、神様ではなく、会社の客たちだった。人間のご機嫌取りは単純明快だ。うまく機嫌を取ることができると、目に見える利益となって返ってくる。一粒万倍。金の粒は、ちゃんと何倍かの利益を生んでくれた。  しかし神様のご機嫌取りは、そんな単純なものではない。うまく機嫌を取っているように思えても、不意に手痛いしっぺ返しを受ける。いったい何が悪かったのかわからない。私のどこがいけなかったのだ。なぜ神様は恭子の命を奪ったのだ。  心の中から聞こえてきた自分の声に、私は驚いた。  妻の死を、私はただ運命と受け止めていた。神に対して文句をいうほど、その存在を信じているわけではない。なのに突然、神を詰《なじ》っていた自分がいた。  鍬初めの儀式なぞに出たためだ。私はダウンコートの中で肩を揺すった。  坂道は段々畑の間をくねくね曲がりながら、深い谷へと落ちこんでいる。冬の朝の冷たい光が、その底を縫う糸無川を銀色に輝かせている。大地に口を開いた深い亀裂のような谷に向かって、私は降りていった。     二  窓から射す午後の陽が茶の間の畳に落ちていた。石油ストーブの網の上で、芋餅《いももち》が甘い匂いを漂わせている。私は炬燵《こたつ》に入り、畳にうつぶせになって新聞を読んでいた。  ——神戸の銀行強盗、犯人は元中学校教師——緊迫の中東情勢——日本人カップル、シアトルで惨殺される——  ほこほこと暖かな故郷の茶の間にいると、血生臭い事件が嘘《うそ》のように思えてくる。私は、アメリカ大統領選挙に関する記事を読みながら、これでドルはどう動くだろうと考えた。それによって円の動向が変わってくると思い、仕事に頭が流れようとしている自分に気がついた。課長の厭味《いやみ》を我慢して得たせっかくの休暇だ。仕事のことで頭を悩ませるのは馬鹿げている。私は新聞を閉じた。 「ほら、熱いうちに食べや」  毛糸のちゃんちゃんこを着た祖母が、新聞の折り込み広告の上に焼けた芋餅を載せて、畳の上を滑らせた。つるつるする広告の紙ごと芋餅をつかみ、私は網の焦げ目のついた餅にかぶりついた。素朴な芋と甘い餡《あん》の味が混ざりあい、口の中に広がった。  襖《ふすま》の戸が開いて、「おお寒い寒い」といいながら、エプロン姿の母が茶の間に入ってきた。霜焼けで赤く膨らんだ手をストーブの上でこすりあわせ、私に声をかけた。 「どうや、竜介。尊幸のところにでも顔を出してくるかえ」  兄は、ここから車で一時間ほどかかる土佐山田町に居を構えている。妻と三人の子供がいて賑《にぎ》やかな家庭だ。私が首を横に振ったので、母は驚いた顔をした。 「せっかく戻んてきたがやき、会いにいっちゃったらええに」 「気が向かんがや」  私はそれ以上、何かいわれないように、また新聞をめくって読むふりをした。母は私の返答が気に入らないらしく、しばし黙っていたが、やがて気を取りなおしていった。 「まあええ、尊幸とは顔を合わさんかっても、貴実とは会えるやろうき」 「なんでや」 「なんでて、貴実、今度の日曜日、子供連れて遊びに来る、いいよったで」  私は顔をしかめた。結婚して隣町に住んでいる妹には二歳になる子供がいる。兄の家よりはましにしろ、幼い子供を連れてやってくると何かとがたがたすることに変わりはない。 「俺《おれ》、どっかに逃げちょくわ」 「なにゆうがで、竜介。貴実やち久しぶりにおまんの顔を見たいゆうて、わざわざ来るがで」  母の口調が荒くなった時、「竜介のことは放っちょいちゃりや」と、新たな芋餅をひっくり返していた祖母が口を挟んだ。 「この子は、恭子さんが死んでからしんどい思いをしゆうがやき」 「そんなことはわかっちょります」  母は言い返した。 「ほいやき、なおさらいいゆうがです。死んだ人のことを考えたら、生き返るわけでもない。男なんやし、いつまでもめそめそしよったら情けない」 「けんど、まだ半年やろうに……」 「半年も過ぎたら、元の生活に戻ってええ時期です」  すべてに投げやりになっている私の最近の生活を知っているかのような母の口振りだった。私はたまらなくなって、「わかった、わかった、もうええ」と二人の会話を遮ると、新聞の上に両手を突いて、炬燵から這《は》いだした。そのまま玄関のほうに向かっていると、母が、どこに行くのかと問うてきた。 「ちょっと表の空気を吸うてくる」  私は紺のダウンコートをはおると、振り向きもせずに外に出た。  雪をあちこちの窪《くぼ》みに残す段々畑の底のほうに、糸無川に沿って県道が走っている。村一軒の雑貨屋と米屋兼酒屋、そしてバスの停留所が道沿いに見えた。私は午後の陽の射す坂道を谷のほうに下りはじめた。  穏やかな光景とは裏腹に、心の中は夏の嵐《あらし》のように揺れていた。私だってわかっている。脳味噌《のうみそ》が腐るほど考えても、妻が生き返るはずもない。今まで通りの生活を取り戻し、仕事に集中しているうちに、恭子の死によって受けた傷も癒《い》えていくだろう。なのに私の心がそうすることを拒否していた。  恭子が交通事故で死ぬ直前まで、私の生活は仕事中心に回っていた。連日のように深夜近くに帰宅して、週末も得意客や上司とゴルフに出かけたりした。妻が愚痴を洩《も》らすと、ローンを払うためだと切り返した。  私たちは一年前、新築一戸建て住宅を買った。実際、そのローンは私の肩に重くのしかかっていた。だが自分の家を手に入れるために苦労するのは、男として当然のように思えたし、だいたい洋風のしゃれたその家に夢中になったのは恭子のほうだった。中古マンションならばもっと楽だっただろうが、三十坪そこそことはいえ新築一戸建て住宅は私たちの家計を圧迫した。ローンを払うために、給料やボーナスの大半が消えていく。それを感じるたびに、妻のために働いているのだという恩着せがましい気持ちも湧《わ》いてきた。私が仕事にあれほど没頭したのは、妻に対する見せしめの意味があったのかもしれない。ほら見ろ、おまえのわがままのせいで、亭主はこれほど苦労しているんだ、わかったか。私は無言のうちにそういっていた。恭子は、これを察したのだろう、自分もパートに出て働くといいだした。私がそこまですることはないと止めると、恭子は「私が無理いって買うことになった家だもの、協力するわよ」と棄《す》て台詞《ぜりふ》を吐き、縫製工場に働きに出るようになった。そして一週間もたたないうちに、工場の出入口で出荷のトラックに轢《ひ》かれて死んだ。運転手の前方不注意だった。  フローリングの床に真新しいシステムキッチンのついた新築の家に一人でいると、虚《むな》しさがこみあげてくる。私たちは愛し合って結婚したはずだった。なのにいつの間にか相手に憎しみを抱くようになっていた。どうしてああなったのかわからない。家のことはただのきっかけだったのだと思う。愛していると思っていた私たちの間に、冷たいものがすっと入ってきた。それは目に見えない薄紙のようなものだった。日ごとに新たな薄紙が一枚一枚と差しこまれていき、分厚くなり、お互いの気持ちを離れさせ、憎しみにも似た感情を形づくっていった。そしてそれが愛とは異なる感情だと気がついた時、私たちは死の世界と生の世界とに隔てられてしまった。自分たちにも理解しようのない、相手に対する刺々《とげとげ》しい気持ちを抱いたままに。  私はまだ死んだ妻を引きずっている。もし私と恭子がうまくいっている時に、死によって分かたれていたならば、こんな中途半端な気分を引きずらないですんだだろう。だが、わからない。うまくいっていたならいたで、私はやはり死んだ妻のことを忘れられないでいるかもしれない。  私はポケットに手を突っこんで、ぶらぶらと急な坂道を下っていく。恭子のことを考えると、全身の力が抜けた気分になる。足を前に踏みだすたびに、つんのめらないように膝《ひざ》に力を入れることすら面倒だ。このまま坂から転がり落ちてもいいと思った。  路傍の曲がり角のそこここに、二体、三体と石地蔵が並んでいる。四国八十八か所を模して、村の随所に八十八体の地蔵を置いているのだ。今でも時々、四国巡りの代わりに村内をお参りする人がいるらしく、石地蔵の前には茶の入った小さな茶碗《ちやわん》や、駄菓子や蜜柑《みかん》が供えられていた。  ——この辺には、未だにお地蔵さんにお供えする人がいるんだね、竜介さん。  最初に村を訪れた時、この地蔵を見た恭子は感心したものだった。恭子は、私がうんざりするほど何にでも驚いた。横浜生まれの彼女には、この村のすべてが過去の遺物のように思えたらしかった。険しい斜面を切り拓いて作った段々畑も、崩れかけた茅葺《かやぶ》き屋根や石置き屋根の家も、囲炉裏《いろり》で馬鈴薯《ばれいしよ》を焼いて食べる習慣も。そして最も驚嘆したものは葛橋《かずらばし》だった。  私はすぐ前に迫った谷に視線を落とした。垂直に落ちこむ谷底に流れる糸無川の上に焦茶色の吊《つ》り橋が架かっている。  ——わあ、すごい。映画を観てるみたい。  子供のように目を輝かせて叫んだ恭子の顔が、今も瞼《まぶた》に焼きついている。それは結婚して最初の夏休み。二人の間に優しさだけが存在していた時代だ。  私は坂道を降りきると、県道に足を踏みだした。葛橋は県道から少し川のほうに下ったところに架かっている。私は恭子との思い出に誘われて、葛橋に近づいていった。  それは山に自生する葛を編んで作った、長さ十五、六メートルの小さな吊り橋だ。足を置くところには人の腕ほどの太さの角材が並べられ、細い葛で繋《つな》がれている。手すりも、橋底を支える敷綱も、橋を吊っている雲綱もすべて葛でできているので、まるで岸から生えた葛が川を渡り、自然に橋となったように見える。  これの三倍ほどもある大きな葛橋が徳島の祖谷《いや》にあって名所となっているほど、今では珍しいものだが、昔は四国の山奥の谷にはかなりの数の葛橋が架かっていたという。この村の葛橋もそんな時代の名残だった。  葛橋は、川縁に生えている二本の大きな杉を支えにして丸太で四角い木枠を組み、そこに結びつけられている。しっかりと作ってあるので橋が落ちる心配はないという話だが、なにしろ通るたびに大きく揺れる。今は少し離れたところにコンクリートの橋ができたので、葛橋を通る者はあまりいない。それでも県道沿いのバス停から、川向かいの山の斜面にへばりつくように建っている六、七軒の家に行くには近道になるために、まだ使われていた。  私は川縁に立って、中央が少し撓《たわ》んでいる葛橋を眺めた。十メートルほど下に岩だらけの渓流が横たわっている。  恭子が葛橋を渡りたいといった時、私は止めた。途中で泣きだしても知らないぞ、といってやった。私自身、子供時代、あまりの揺れに立ち往生してしまったことが何度もあった。川縁に立っていた仲間たちに、いっせいに、弱虫竜介、竜の名が泣くぞ、と囃《はや》したてられ悔しい思いをしたものだった。  葛橋を渡る怖さをよく知っていたので、都会育ちの恭子には無理だろうというと、妻は顔を赤くして、こんな橋、自分だって渡れると言い張った。私は、だったらやってみろ、と言い返し、二人で葛橋を渡りはじめた。そういえば、あれが私たちの間に起きた最初の口論だった。  背後で足音がして、私は振り返った。県道から降りてくる道を、籠《かご》を背負い、腰に鎌を差した初老の男がやってくる。首には手拭《てぬぐ》いを巻きつけ、毛革で裏張りされたもこもこした上着に地下足袋《じかたび》を履いている。秋茄子《あきなす》のように太く威勢のいい鼻が、面長の骨格のはっきりした顔の中央に居座っている。口の両脇《りようわき》や額にくっきりと深い皺《しわ》が刻まれているが、皮膚全体は赤黒いほどにつやつやしている。とっさに名前は思い出せなかったが、見覚えのある顔だった。私が会釈すると、男は懐かしそうに笑いかけた。 「こりゃあ、三宮さんくの竜ちゃんやないか」  頭を下げて、今、帰省しているのだと説明しながら、記憶の底をひっかきまわして相手の名を探っていた私は、男の背中の籠から覗《のぞ》いている太い葛の束に気がついた。採ったばかりらしく、切り口はまだ青々としている。  そうだ、確かこの男は山林採伐夫だった。皆、章造さんと呼んで、枝や蔦《つた》伐りなど植林の世話を頼んでいる。私の家の所有している山林も、この男に任せていたはずだった。  章造は、葛橋と私を見比べて聞いた。 「橋を渡るつもりじゃったがかえ」  私は苦笑いした。 「いや、俺はこの橋、苦手じゃき」 「ああ、慣れちゃあせん者は、気軽に渡らんほうがええ」  弱虫竜介、竜の名が泣くぞ。遊び仲間のからかいの言葉を思い出して、私は話題を変えた。 「そんなにたくさんの葛、どうするがですか」  章造は背負った籠をひと揺すりして、橋のつけ替えのための材料だと答えた。そして太い葛が何重にも巻きつけられた川岸の杉を眺めた。 「そろそろ、この葛も寿命やきのお。どっかが切れる前に新しいもんにしちょかんと危ないきに」 「けど、大仕事ですろう」  私が小学校四年の時、村中の男が駆りだされ、大騒ぎして葛橋をつけ替えたことがあった。その折、身軽に杉の木に登ったり、葛を括《くく》りつけたりして、目立って活躍していたのは章造だった。二十年も前の話だ。当時の章造は今の私より少し若いくらいだったと考えながら、「けど、大仕事ですろう」といった。 「そらまあ、おおごとやけど……」  章造は、体に比してやけに大きな顔を川向こうの藤の川部落のほうに捻《ねじ》って、あちら側の家の人から橋が落ちる前につけ替えて欲しいと懇願されているのだと説明した。葛橋を向こう岸に渡る近道に使っている者にとっては、橋のつけ替えは切羽詰まった問題なのだ。 「けんど村にももうあんまし手伝いの男手もないがやないですか」  章造は渋い顔を私に向けた。 「そうじゃよ、つけ替えの日には人足を雇わにゃいかんやろう。金がかかることよ。ほんやき、わし一人でできることはできるだけやっちゃろうと思うて、こうして葛集めは自分でしゆうがよ」  それで仕事を思いだしたらしく、章造は私に会釈すると橋の袂《たもと》の茂みの中につけられた糸無川に下っていく小道に入っていこうとした。 「下にも葛があるんですか」  私は章造の背中に声をかけた。章造は、川原に葛置き場を作ったのだと答えて、見たければ来たらいい、と笹《ささ》の茂みの奥からつけ加えた。私は章造が消えた後の笹の揺れを眺めた。他にやることもないし、ひとつ見てやるかと思い、茂みを掻《か》きわけて急な坂道を二十メートルほど降りていった。笹の群落が途切れたところが川原だった。灰色の岩にぶつかり、水《みず》飛沫《しぶき》を上げる糸無川が轟《とどろ》くような音をたてて流れている。  葛橋の下にあたるところに、壁が一方にしかついてない粗末な小屋が建てられていた。中には作業道具らが置かれ、小屋の周囲には葛の輪が何巻も転がっている。橋の下なので、ちょうど雨露をしのげるのだ。輪になった葛は大人の手首くらいの太さのものから、小指程度のものまで、大きさも長さもまちまちだ。章造はその隣で負い籠を逆さにして、採ってきた葛をぶちまけていた。 「しらくち葛じゃ」  章造は、私が降りてくるのがわかっていたというように、こちらを振り向きもせずにいった。 「しらくち葛は、高い山の上のほうにしか生えちょらん。全部で三百本以上は要るき、これっぱあ集めるにもふた月かかった」 「どっさり手間賃貰《もら》わんと、やってられんねえ」  冗談混じりに合いの手を入れると、章造は、お金はほとんど貰ってないと答えた。 「なんでまた」  私は驚いた。章造は掌《てのひら》で黒々とした首筋を掻いた。その大造りの顔にもどかしげな表情が浮かんだ。 「なんでゆうたち……」  ぎっぎっぎっ。葛のきしむ音が降ってきた。私と章造は同時に顔を上げた。  葛橋を、藤の川部落のほうから誰かが渡ってくるところだった。橋の底に敷いた角材の隙間《すきま》に、女の脚が動いている。ストッキングを穿《は》いた脹《ふく》ら脛《はぎ》から足首、そして白い運動靴が覗いている。軽い足取りで、向こう岸からこちらに近づいてくる。下からでは姿形が見えないために、まるで脚だけが葛橋を渡ってくるようだ。少しぼってりした鈍くささと女っぽさの混ざりあった脚。ふと、恭子の脚もあんな感じだったなと思った。 「篤子さんじゃ」  章造がその脚を目で追いながら呟いた。まるで一瞬、魂がどこかに飛んでいってしまっていたような声だった。 「篤子さんち……」  私が聞くと、章造はびくっと頭を震わせて我に返った。そして向こう岸の山の斜面に建つ家を指さし、岩城家の娘だといった。 「ああ、貴実と一緒やった……」  岩城篤子は妹の貴実と同い年だ。小学生の頃は、妹に連れられて家に遊びに来たこともある。もっとも、おとなしい性格の娘だったから、私の記憶にはほとんど残っていない。顔も忘れてしまっていた。 「ああして、よう、わしに茶菓子を持ってきてくれる。わしがただで葛集めを買ってでたもんやき、川向こうの家はどっこもありがたがってくれての。何かにつけて大事にしてくれるわ」 「けど、篤子さんはとうに余所《よそ》に嫁いでいったと聞いたけど」  章造は、葛橋を渡り終わった篤子が小屋に続く小道に入ってきたのを確かめてから、早口で囁《ささや》いた。 「戻ってきたんじゃ」 「離婚したということか」  章造は懐手をして頷《うなず》いた。 「二年ばあ前のことよ」  がさがさと笹の揺れる音がして、小道から女が現れた。雀斑《そばかす》の浮いた頬《ほお》に落ち窪《くぼ》んだ二重瞼の目。セーターに黄色のエプロンをつけ、さらに赤い格子柄の綿入り半纏《はんてん》を着こんでいる。このあたりのどこにでもいる農家の女といった風情だ。道ですれ違っても、岩城篤子とはわからなかっただろう。しかしよく見ると、魚がくねったような唇や、寄り気味の目頭に子供時代の面影を残していた。  篤子も、私が貴実の兄とは気がつかないらしい。白い布巾《ふきん》をかけた盆を持って、訝《いぶか》しげな顔つきで近づいてきた。 「竜ちゃん……ほら、三宮の……」  章造の言葉に、篤子は荒れてがさがさした手を口にあてた。 「貴ちゃんのお兄さんかえ」  しかし、まだ私とは信じられないらしく戸惑いながら挨拶《あいさつ》すると、持ってきた盆を葛の輪の上に置いた。私は篤子の脚をそっと眺めた。さっき橋の下から覗いた時に思ったほど、その脚は恭子に似てはいなかった。 「ほお、こりゃ、うまそうぞ」  章造が盆の布巾を取って、口を丸めた。竹串に刺した芋が皿に載っている。芋の表面に塗った味噌から香ばしい匂いが漂ってくる。 「竜ちゃんも一本どうかね。篤子さんの作る味噌田楽《みそでんがく》はうまいで」  辞退しかけた私に、篤子が田楽の串を取ってついと差しだした。 「まあ、食べてみてや」  芋から覗く串の先が、私の顔に突きつけられた。一瞬、私は目が射抜かれるような恐怖を覚えて、頭を横に逸《そ》らした。篤子は私のその仕草を誤解して、魚が泳ぐように唇を曲げた。 「こんな田舎の食べ物は口に合わんかしらね」  そんなことはないと弁解して、私は竹串を受け取ると、他の二人を真似《まね》て葛の束の上に腰を下ろした。口に含むと、甘い芋と味噌の味が微妙に混ざりあい、もってりとしてうまかった。味噌の味が普通のものとは違う気がするというと、篤子は嬉《うれ》しそうに自分の作った味噌だといった。 「篤子さんの味噌は有名での、今じゃ売りゆうぐらいぞ」  二本目の芋の味噌田楽に手を伸ばして、章造が口を挟んだ。篤子は顔の前で手を横に振った。 「有名らぁて、いやちや。農協の青空市場に出しゆうだけながやき」  そして篤子は話題を変えるように、「竜介さんは東京でかっこええ仕事しゆうと聞いたけんど」といった。私は苦笑いした。 「証券会社に勤めゆうだけよ。かっこええもんじゃない」 「証券会社らぁて、すごいやいか」 「くだらん仕事じゃ」  吐きだすようにいってから、私は自分の口調の強さに驚いた。どれだけ仕事に嫌気がさしていたか、今さらながらに気がついた。  章造が食べかけの芋の串を握ったまま、穏やかにいった。 「男が自分の仕事をくだらんいうとは情けない。そんなことじゃ嫁さんが泣くぞ」  私は竹串を皿に戻して、できるだけ軽い調子で応じた。 「嫁さんなら半年前にあの世に逝ってしもうたき、心配ない」  章造と篤子の表情が冷たい風に撫《な》でられたように強《こわ》ばった。私は激しい勢いで流れていく川を眺めた。その両側には、冬枯れの木々や岸辺の灰色の岩が憤る川をなだめるように静かに佇《たたず》んでいる。 「そりゃあ、気の毒なことをしたのう」  章造は喉にものが詰まったような声でいった。篤子は膝《ひざ》の上で所在なさげに手を揉《も》みあわせている。 「ごちそうさん、おいしかったで、篤子さん」  私はその場の気まずさから逃れようと、腰を上げた。篤子は「なんちゃあじゃない」ともぞもぞ呟《つぶや》いた。  県道に登る小道のほうに行きかけた時、背後で篤子の笑い声が聞こえた。振り向くと、章造が何か冗談でもいったらしく、篤子が口に手をあてて笑っていた。天を仰ぐように伸びた喉元の線が美しかった。私は川原に背を向けて笹《ささ》の茂みに入っていった。     三  篤子との出会いが頭のどこかにひっかかっていたせいだろう、私は翌日再び葛橋《かずらばし》の袂《たもと》に行った。  時折、雪のちらつく冷たい日だった。べつに橋を目指して家を出たわけではなかったが昼食を摂《と》ってから散歩しているうちに、再び葛橋の前に来ていた。  橋は渓谷に糸のように架かっていた。灰色に霞《かす》む向こう岸とこちら岸を頼りなげに繋《つな》いでいる。  死んだ恭子がこの橋を渡ると言い張った時、私は妻を先に行かせた。案の定、十歩も行かないうちに恭子は立ち往生した。前に進もうと努力しているのだが足がすくんで動けないでいるのが、後ろにいる私にはわかった。子供の時こそ怖がっていたが、大人になってから何度か渡りおおせた経験はあったから、私はそんな妻を余裕をもって眺めることができた。  ——肩の力を抜けよ。  私は声をかけた。妻の肩が大きく上下に震え、もう一度前に進もうと体を捩《ねじ》り、それができなくて、ついに振り返った。恭子の目には涙が滲んでいた。恐怖からではなく、渡れないということに対する悔しさからくる涙だった。私はそれを見てとり、少しばかり満足感を味わい、引き返そうと持ちかけた。恭子は他にどうすることもできずに頷いた。私は妻の冷たく強ばった手を取り、一歩一歩、後ずさりして引き返した。  岸辺に着いた時、恭子は私の胸に抱きついて大きく息を吐いた。怖かった、と妻はいった。私は妻を抱きしめて、意地を張るからだ、といってやった。恭子は答えなかった。そして唐突に私から身を離し、拗《す》ねたように歩きだした。  あの時、二人の間に最初の薄紙が差しこまれたのだ。ほんのわずかな一ミリにも満たない厚さの薄紙。一時間もすると恭子も機嫌を直し、私たちは気持ちがすれ違ったことも忘れてしまった。だけど薄紙は私たちの肌の間に差しこまれたままだった。  そしてそれは、恭子が友人との同窓会で深夜帰宅した時、私が恭子の作った南瓜《かぼちや》の煮物が腐っているといった時、恭子が私の書類|鞄《かばん》の中を覗《のぞ》いた時、そんな機会ごとに一枚ずつ新たに差しこまれていった。  私は葛橋を渡りはじめた。橋が私の体重でゆらゆら揺れる。しかし爪先で床の角材を踏んで進めば、体の均衡を崩さなくてすむ。恭子が立ち往生したところを過ぎ、ほら、俺ならこんなに簡単に渡れる、と心に呟いた時だった。角材の間に、水《みず》飛沫《しぶき》を上げる川面が見えた。水縁に大きな灰色の岩が転がっている。ここから落ちたら死ぬという考えが頭に閃《ひらめ》いたとたん足がすくみ、私は葛を編んで作った手すりにしがみついた。  落ち着くのだ。この橋から転落するはずはない。足許の角材と角材の隙間といったら、ほんの十二、三センチだ。その間から人の体が滑りおちるはずはない。わかっているのに、足が進まない。  何度か前に足を踏みだそうとして、恭子の姿と重なった。まるで、あの時妻が味わった恐怖を、今、私が再体験しているようだった。  おい、恭子。俺に仕返ししているつもりか。  半ば冗談半ば本気でそう思い、もう一度、足を踏みだそうとした。しかし全身が強ばって動かない。 「肩の力を抜いて」  背後で女の声がした。私は弾《はじ》かれたように振り向いた。  葛橋の袂に篤子が立っていた。肌色のコートに黒と白の千鳥格子のズボンを穿《は》いている。バッグを持っているところを見ると、どこかに出かけての帰りのようだった。 「ああ、篤子さん」  私はへっぴり腰で手すりにしがみついたまま、照れ隠しにことさらひょうきんにいった。 「ここまで来たはええけんど、引き返そうかどうしょうか迷いゆうとこじゃ」  篤子は「そこにおりなさいや」と声をかけると、葛橋を渡ってきた。篤子の重みが加わって、葛橋がぎしぎしと音をたてて揺れる。私は、橋が落ちるのではないかと怯《おび》えた。  篤子はあっという間に私の許《もと》にやってきて、脇《わき》に立った。 「ほら、この手につかまって」  彼女の右手が差しだされた。ばつが悪かったが、仕方なかった。私は女の手を握った。 「ちょっと膝を曲げて、重心を下にして、揺れに体を合わせて歩いたらええ」  篤子はそういって励ますと、私の手を取って歩きだした。私たちのいる地点からは、元の岸辺に戻るほうが近い。しかし引き返すことは彼女の頭には浮かばないようだった。自分からそれを申し出るのもさすがにあまりに格好が悪くて、私はどうにでもなれという気分で足を踏みだした。  葛橋は撓《たわ》みながら、灰色に煙る向こう岸へとまっすぐに続いている。急な崖《がけ》の上に、茶色の枯れ葉がちらほらと残る木立が広がっている。橋を渡る前はすぐ近くに見えたのに、今はそれはとてつもなく長い距離に思えた。  足許からは、ごおごおという水音が湧《わ》きあがってくる。一歩進むごとに葛がきしんで、きりりきりりと音をたてる。それに冷たい風の音が混ざりあい、私は耳鳴りを覚えた。  ほぉほぉほぉほぉぉぉぉ。  鍬初めの終わりの時の男たちの声が残っていたのだろう。耳鳴りは、そんなふうに聞こえた。その声は橋の周囲の灰色の景色と溶け合い、私のまわりを巡った。私は木の葉のように舞いながら、深い穴の底に落ちていく気持ちを味わった。 「着いたで」  篤子の声がして、私は瞬きした。目の前に岸があった。最後の一歩で橋を渡り終えるという時だった。篤子は握っていた私の手の甲を人差し指で二度撫でた。  息が止まりそうになった。それは私と恭子の間の暗黙の了解だった。どちらかが性の欲望に燃えた時、相手の手の甲を二度、人差し指で撫でる。いつとはなし、それが夫婦の寝室に行く合図となっていた。  驚きで頭が空白になったような一瞬のうちに私の足が硬い地面に着き、篤子の手がするりと抜けた。その手をつかみ直したいと思った。捕まえて手繰り寄せたら、そこに恭子が現れるのではないか。  だが、目の前に立っているのは、どう見ても篤子だった。二重瞼《ふたえまぶた》の窪んだ目に小魚がくねるような形の唇。よそ行きの服装のせいだろうか、昨日見た時より田舎臭さは薄れていた。肌色のコートに、真珠色がかった桃色の口紅が似合っていた。 「いやや、竜介さん。顔が白うなっちゅう。家に寄って、お茶でも飲んで休んでいくかえ」  確かに胸はまだどきどきしていた。私は反射的に頷《うなず》いた。  篤子は「家はこっちやき」というと、先に立って歩きはじめた。私は葛橋に背を向けて、山の斜面につけられた狭い石段を登っていった。私の家をはじめとして村のほとんどの家が集まっている対岸の山よりも、斜面はずっと険しい。こちら側に住んでいる藤の川部落の七、八軒の家は、どこも敷地を広げるために山肌を切り崩し、前面に桟敷《さじき》を作って客土を盛り、庭にしている。中でもかなりの広い敷地を造っているのが篤子の実家である岩城家だった。横長の土地に母屋を挟んで納屋と隠居屋が並んでいる。篤子は隠居屋を指さして、自分はあそこに住んでいるのだといった。  このあたりでは、長男が結婚すると、両親は他の子供たちを連れて隠居屋に移る習慣になっている。親と一緒に住んでいるのかと聞くと、篤子は両親は死んだと答えた。五年前に父親が癌《がん》で、その半年後に母親が心臓発作で死んだという。 「二人ともこの村に生まれた同い年夫婦で、死んだのも同《おんな》じ年やった。母が死んだ時は、父が連れていったと、親戚中、噂《うわさ》したもんじゃった。六十歳でまだ若かったけんど、まあ、連れだって逝ったがやき文句もないじゃろう」  あっけらかんと語る篤子が、私は少し意外だった。子供の時のおとなしかった印象から、私はなんとなく彼女はもっとじっとりした考え方の女だと思いこんでいた。  私たちは石段から横に逸《そ》れる小道に入っていき、岩城家の庭に出た。ちょうど隠居屋の前だった。母屋の半分もない小さな家で、茅葺屋根をトタン板に葺き替えているが、家の前面に風呂場と便所がくっついている形は、このあたりの昔ながらの農家の造りそのままだ。 「おかえり、篤子さん」  母屋の縁側から、手拭《てむぐ》いを姐《あね》さんかぶりにした四十代ほどの女が声をかけてきた。茹《ゆ》でた芋を切って笊《ざる》に並べ、干し芋を作っているのだ。 「こちらは三宮竜介さん、あの三宮さんくの息子さん」  私の顔をじろじろと見つめている女に、篤子が紹介すると、相手の表情が和んだ。 「ああ、三宮栄さんくの……。私の弟があんたんとこのお兄さんと同じ年じゃなかったろうか。お兄さん、尊幸さんじゃったっけ……」  ちょうどその時、納屋の横の車道に真っ赤な四輪駆動車が止まって、中から長靴にジーンズ姿の若い男が出てきた。女はそちらに顔を向けると、けたたましい声で叫んだ。 「あっ、康一、戻んてきたかえ。さっき青年団の森田さんから電話があったで」  篤子は、女の注意が息子らしい若者に逸れたのを機に、隠居屋の入口の板戸を開いて、私を中に招きいれた。  敷居を跨《また》ぐと土間になっていた。その奥が板の間だ。 「よかったわ、義姉に捕まったら、三十分はつき合わされるところじゃった」  篤子はそういって、板の間に上がるように勧めた。私は靴を脱いだ。  そこは八畳ほどの台所兼茶の間だった。タイル張りの流しの隣の作業台には、炊飯器やガス台が並んでいる。部屋の真ん中には囲炉裏《いろり》が切られ、周囲には茣蓙《ござ》が敷かれている。昔ながらの空間に置かれた小型冷蔵庫や安物の白い食器棚がやけに浮きたっている。  篤子は板の間の石油ストーブをつけると、コートを脱いで、昨日と同じ黄色のエプロンをつけ、やかんに湯を沸かしはじめた。 「あんまり古い家やき、びっくりしたんじゃないかえ」  篤子は急須に茶の葉を入れながら話しかけた。さっきのことがあったせいか、打ち解けた口調に変わっている。母屋が近いとはいえ、女の一人所帯に男を招きいれたことに対して何とも思ってないようだ。石油ストーブにかがみこんで手を炙《あぶ》りながら、私は、そうやな、と返事した。 「この村でも、これっぱあ古い隠居屋は珍しいがやないか」 「そう思うわ。死んだ両親はこれでもよかったらしいけんど、私は住みにくうてたまりゃあせん。冬は隙間風《すきまかぜ》が入ってきて寒いし、あちこちがたがきちゅうし」 「けど居心地は悪うはないで」  私は東京の家を思い出していた。設備の整った新築の家。住む者がいなくなって、今はひっそりとしている。床にだらしなく置かれた私の衣類。水垢《みずあか》のこびりついた風呂場。汚れた皿が放りだされている流し。恭子を失ったあの家は廃墟《はいきよ》と化してしまった。家に女がいるというのは、どんなに心温まるものだろう。 「篤子さんはここで自炊しゆうがかえ」  台所に置かれた野菜や食料品に目を遣《や》って、私は尋ねた。篤子は急須に湯を注ぎながら、当然といわんばかりに頷いた。 「けど、時々は、母屋のお兄さんの家族と一緒に食べたりするろう」 「たまにね」  素っ気ない返事だった。 「篤子さんは独立しちゅうがやな」  私は冗談めかしていった。篤子は湯飲みに入った茶を囲炉裏端の私の前に置くと、はすかいに座った。 「独立しちゅうゆうても、まだまだよ。集荷時期になったら茶工場で働いて、それでなんとか暮らしゆう」  篤子はふっと笑った。 「結婚しちゅう時は、こんな日が来るとは思いもよらんかった。けんどこうなったらこうなったで、それなりに気は楽よ。これで味噌《みそ》造りがうまいこといってくれたら、ありがたいんやけど」 「篤子さんの味噌、農協の市で売りゆうくらいやったら、うもういきゆうがやないかや」 「まあまあね」  篤子は茶を啜《すす》った。 「私の造りゆう味噌は大麦と唐黍《とうきび》から作った麹《こうじ》を使うちゅうがよ。米麹みたいに店で売りやあせんき、自分で造らにゃいかんけんど、それを大豆を煮たのんと混ぜて味噌を造ったら、昔懐かしい味やゆうて、けっこう評判がええんで。それで、そのうちきちんと許可取って、農協を経由して町のスーパーなんかに出荷できたらええと思いゆうところ」  実家に身を寄せる出戻りの女という私の先入観から、篤子は少しずつ外れつつあった。そのことに対して、私は落ち着かなさと興味を同時に覚えた。 「昨日の味噌はうまかった」  私がいうと、篤子は嬉しそうに笑った。くにゃりと唇が動いて、顔の上で飛び魚が跳ねたようだった。そして「私の麹、見てみる」と聞いてきた。  味噌蔵にでも入れているのだろうと思いながら、私は頷いた。篤子は湯飲みを盆の上に置くと、板の間から降りて、台所と土間の境の地面にかがみこんだ。家の外に出るために靴でも探しているのかと思っていたら、地面にかぶせていた板を外している。 「なんじゃ」  私は板の間から降りて聞いた。篤子は、芋壺《いもつぼ》だと答えた。 「秋に穫《と》った芋をここに入れて春まで蓄えるところよ。今はほとんど使いやあせんき、私の味噌置き場にしちゅうが」  板を除くと、暗い穴が現れた。梯子《はしご》段が架かっているが、上から見た限りではどのくらい深いかはわからない。篤子は懐中電灯を持ち、私についてくるように合図して穴に消えた。まもなく、ええで、という声がした。私は篤子が下から照らしてくれる懐中電灯の光を頼りに梯子段を降りていった。  梯子は十段ほどあっただろうか。すぐ底に着いた。中は意外に暖かだった。背を伸ばすと、頭すれすれのところに天井がある。それは台所の床板と兼用になっているらしい。穴の幅は四メートルほどだが、奥にまだ続いている。梯子の近くの地面に、漬物|樽《だる》や果実酒の瓶が置かれていた。篤子はその近くの長方形の箱の前に立って、上にかけた筵《むしろ》をめくって懐中電灯をあてた。 「ほら、これが麹」  箱の中には、黄色い黴《かび》の生えた四角いものがいくつも置かれていた。微《かす》かに鼻をつく臭《にお》いがする。見てもおもしろいものではなかったが、それを顔に出すのも悪かったから「へえ」と感心したふりをした。 「ほら、あれが去年造った味噌」  篤子は味噌造りの話になると夢中になるらしく、懐中電灯で今度は穴の奥を照らした。そこには味噌樽が三十ばかり並んでいた。 「芋もあるじゃいか」  味噌の話には退屈してきていた私はいった。味噌樽の後ろにこんもりとした芋の山ができていた。篤子は、兄が去年の芋を放りこんだのだと、懐中電灯の光を芋のほうにあてた。  芋の山は大人の腰の高さまで積もっている。懐中電灯に照らされた灰色の芋山は、闇《やみ》の中にどこまでも続く石の原にも見えた。 「いったい、どれっぱあ深いがじゃ、この芋壺は」  私は彼方から流れてくる土と植物の黴びたような臭いを嗅《か》ぎながら、闇を透かし見た。 「それほど深いわけでもないわ。芋壺ゆうんは、南向きの床下に作るもんと決まっちょってね、この穴は家の南側まで続いちゅうがよ」 「ほいたら、もうひとつの出入り口があるがか」 「そうよ、この芋はそっちから兄が入れたがよ。見てみるかえ」  篤子はひょいと芋の山に這《は》いあがった。ごろごろと芋が数個転がり落ち、私の靴の先にぶつかった。山の上に背を丸めてかがんだ篤子の格好は、人というより獣のようだった。篤子は肩越しに私を振り向き、「ほら、来てみや」と誘った。懐中電灯の光が芋山の上で左右に揺れた。すぐ近くのはずなのに、なんだか遠くの小高い丘の上で振られたような、遠近感の狂った感じがした。さほど奥まで行ってみたいと思ったわけではなかったが、行かないと答えて臆病者《おくびようもの》に思われたくはなかった。そうでなくても、葛橋で私はすでに格好悪いところを見られていた。私は芋の山に這いあがった。  生暖かい空気が澱《よど》んでいた下方とは違い、頭上を過ぎるひんやりとした空気の流れを感じる。ほんとうに小高い丘の上にでも上がった気分だ。天井がすぐそこにあるとは信じられず、私はそろそろと立ちあがってみた。中腰になったところで、顔にふわっと蜘蛛《くも》の巣がかかり、頭をごつんと床板にぶつけた。悲鳴を洩《も》らした私を、篤子が懐中電灯で照らして笑った。 「後ろから明からせちゃおき、先に行きや」  私は四つん這いで芋の原を進みだした。背後から照らされる光に、ごろごろした芋の上に落ちる私の影が見える。それは石の原に広がる黒雲のようだ。灰色の芋の山は、四方にどこまでも広がり、やがて黒い闇に呑《の》まれている。縁側の下に続いているならば、どこからか明かりが射してきてもいいはずなのに、あたりは真っ暗だった。 「洞窟《どうくつ》探検隊みたいやね」  私は後ろについてくる篤子にいった。自分の声がやけに大きく聞こえた。 「子供の時、この芋壺に入って遊んだもんよ」  篤子が返事した。 「うちの妹らとか」 「ううん。この藤の川の近所の子らと。男の子がほとんど」  背後の暗闇から篤子の息づかいが聞こえてくる。私の尻《しり》のところに、篤子の顔があるということに遅まきながら気がついて、背筋がぞくぞくした。 「ほいたら、勝田の吉男らと一緒か」  狼狽《ろうばい》を隠そうとして、私は気軽な調子で続ける。 「そうそう、吉男君。竜介さんと同じ年かねえ」  篤子も平気な調子で応じる。しかし、その声はますます尻のほうに近づいてくる。 「一遍、吉男君がここに宝が隠されちゅうかもしれんといいだして、皆で宝探したことがあった。芋をひっくり返して、味噌樽や漬物樽を動かして、壁を調べたりしゆううちに夜になってしもうてねえ」  私の陰茎を何かが触っていた。それは睾丸《こうがん》を微かにこすり、陰茎の根本に草の穂のように触れている。懐中電灯の先だと気がついた時には、すでに陰茎は硬くなっていた。 「外に出てみたら、近所中の子供が神隠しに遭うたゆうて大騒ぎよ」  篤子は自分の持つ懐中電灯の先が私の陰茎に触れているのに気がつかないように、話を続けている。懐中電灯の光に照らしだされた私の陰茎の膨らみを、淡々と篤子が見ている。その想像が頭に湧《わ》きあがったとたん、陰茎はますます硬く熱くなった。たまらなくなって息を吐いた時、ふっと懐中電灯の光が消えた。そして硬い金属の笠の代わりに、柔らかな女の指が私の陰茎を包んだ。もう前に這いすすむことなぞできなかった。かといって後ろを振り向くこともできない。私は四つん這いのままその場に釘付《くぎづ》けになった。女の体が私の尻に後ろから覆いかぶさってきて、片手で陰茎を、もう片手で睾丸を揉《も》んだ。女のふたつの乳房が私の尻に当たり、揺れるのがわかる。私の陰茎は呼吸するように硬く反り返り、震えた。  女は自分の腰を私の尻に押しつけて、私のズボンの前のファスナーを下ろして、陰茎を引きずりだして揉みつづける。私は四つん這いになったまま、それを受けいれつづける。やがて女は私のズボンを尻から剥《む》いて、私を仰向けにした。そして自分もズボンを脱ぎ、濡《ぬ》れた下の唇で、私の陰茎を包みこんだ。女の膣《ちつ》は暖かい泥のようだった。私の陰茎はその中で溺《おぼ》れ、女は尻を上下させ、私の腹に自分の太股《ふともも》を打ちつけた。その興奮が私にも燃えうつり、私は激しく腰を動かし、あっという間に射精していた。  女は暗闇で私から降り、ごそごそと音をたてて身づくろいをすると、闇の中に後ずさりして消えていった。私はしばらく芋の山の上に寝転がっていた。  いったい何が起きたのか、考えをまとめようとしたができなかった。私は寒気を覚え、ズボンの中に私のだらりとした陰茎をしまい、芋の山を降りた。芋壺の出入り口から光が射してきている。それを頼りに階段を昇っていった。  篤子の声が隠居屋の外から聞こえた。私は敷居を越えて庭に出た。篤子は甥《おい》らしい若者と早口で立ち話していた。平然とした顔を取り繕っているが、エプロンの下に手を入れて、拳《こぶし》でばたばたと前掛けを動かしているのが陰茎の動きを示しているようで、やけに卑猥《ひわい》だった。篤子は隠居屋から出てきた私に目を止めると、エプロンの下から手を出して、少し硬い表情で、さよなら、という風に横に振った。私と同様、篤子も自分の行為にうろたえているようだった。  私はちりぢりになった自分の心を抱えて、岩城家の門から出ていった。そして今度は葛橋を避けて、大きく迂回《うかい》してコンクリートの橋を渡って家に戻っていった。     四 「篤っちゃんも気の毒にねえ。旦那《だんな》さんが二号さん作ってねぇ。そっちに子供ができたちゆうて、嫁ぎ先から犬の子を返すみたいに戻されてきたがやと。慰謝料も雀《すずめ》の涙よ」  貴実はそういうと、澄まし汁を啜《すす》った。 「ほんとか」  思わず私の声が大きくなった。  日曜日の昼間だった。妹の貴実が子供を連れて遊びに来ていた。炬燵《こたつ》の上には赤飯や焼き魚が並んでいる。もう食事は終わり、食卓に残っているのは、幼い子供の世話で食べそびれた貴実と、ちびちび熱燗《あつかん》を呑んでいる私だけだった。話のついでに、葛橋のところで篤子を見かけたと水を向けてみたのだった。 「ほんとやち。今じゃ元の旦那さんは浮気相手と再婚して、その赤ちゃんと一緒に暮らしゆうがよ」  貴実は里芋の煮ころがしを箸《はし》でつまみながら答えた。 「けんど……法律的にいうたら、そんなことで一方的に離婚はできんやろうが」  取り皿にうつむいていた貴実の瞳《ひとみ》がぐるっと上に動き、私を見た。 「それには裏があるがよ、お兄ちゃん」  思わせぶりな言い方に、私は妹のほうに身を乗りだした。 「なんや」  隣の座敷では、祖母が貴実の子供の相手をしている。玩具《おもちや》の機関車を畳の上で走らせているのだが、男の子だけあって乱暴だ。機関車を柱や障子にぶつけるたびに、祖母は「ありゃありゃ」と合いの手のような悲鳴をあげている。両親は、貴実の家への土産にするといって、外に干し柿を取りにいったところだ。周囲で耳をそばだてる者が誰もいないのを確かめて、貴実は小声で続けた。 「旦那さん、ある晩、篤っちゃんと一緒に酒場に呑みにいったと。そこで篤っちゃんが酔っぱろうたら、おまえは先に帰れゆうて、友達の車に乗せたと。帰りに何があったかわからんけんど、旦那さんは、その晩、篤っちゃんが浮気したゆうて、離婚の理由にしたらしいで。ほんと、男ゆうたら汚いち」  私は二日前の出来事を考えた。篤子がどうしてあんなに思いきったことをしでかしたのかわからない。篤子がずっと前から私に惚《ほ》れていて、芋壺で私に手を伸ばしてきたとも思えない。そんな冷静な行為ではなかった。突然、欲情したのだろうか。だが、いったいどうして。私と彼女は顔見知り程度の仲だし、二十年近く顔を合わせたこともなかったのだ。  どんなに頭を捻《ひね》っても、何の理解も得られなかった。しかし篤子が浮気好きな女だったというのなら、まだ納得しやすい。 「わからんで。ほんとに何かあったかもしれん」  妹は里芋を口に含んだまま、目を見開いた。 「あのおとなしい篤っちゃんが浮気みたいな大それたことするとは思えんわ」  貴実は里芋を飲みこんで、かぶりを振った。  芋壺での篤子を見たら、妹は何というだろうと私は思った。男と女とは見ているものがまったく違うのかもしれない。 「まあ、人というもんはわからんもんやけんど」  貴実は私の心を読みとったかのように呟《つぶや》いて、しゃくれた顎《あご》を振って、隣の座敷のほうに目を遣《や》った。そして子供の遊ぶ姿を眺めながら続けた。 「結局は篤っちゃんも子供がおらんうちに離婚できてよかったがよ。子供ができてから亭主が厭《いや》になったら、おおごとじゃき」  貴実は唇の右端を頬《ほお》に喰《く》いこむほど歪《ゆが》めた。私は冗談半分で、おまえの亭主も浮気でもしたのかと聞いてみた。貴実は、とんでもないというようにかぶりを振った。 「うちの旦那さんにゃ、そんな器量はありゃあせん。浮気できん代わりに、仲間と遊び惚《ほう》けてちっとも家庭奉公してくれんがよ。今日やって中学校からの友達と連れだって朝早うから釣りに行ってしもうたわ」  義弟は、親代々続く隣町の自転車屋を引き継いでいる。毎日、手を油で真っ黒にして、自転車やバイクの修理をしたり、店先で父親の代からの顧客とお喋《しやべ》りしている。以前はつまらない生活だろうなと思っていた。しかし今は彼ののんびりした生き方が羨《うらや》ましくもあった。出世競争にも、上司の機嫌取りにも関わりない。 「休みには釣りか。ええ生活じゃいか」  私はそういったが、貴実はつまらなそうに唇を尖《とが》らせた。何かが妹を苛立《いらだ》たせていた。私と恭子との間に挟まれていった薄紙が、妹夫婦の間にもあるのだろうか。私はそんなことを想像しながら杯《さかずき》に残った酒を飲み干すと、また徳利の酒をついだ。そんな私をちらちらと眺めていた貴実が聞いた。 「お兄ちゃん、なんで急に会社を休んで戻んてきたがで」 「なんでて……戻んてきとうなったきじゃ」  私は憮然《ぶぜん》として答えた。 「けど、証券会社の仕事ゆうたら一刻を争う。気が抜けんき一日も休めんて、正月やち戻んてこんかったがやないかえ。盆暮れでもないのに、一週間も休んでええがかえ」  妹は痛いところを突いてくる。私は面倒になって、「帰りとうなったけ、帰ってきたがじゃ」といって畳にごろりと横になった。貴実が私の脇腹を揺すった。 「もう酔うたがかえ、お兄ちゃん」  私は煩《うるさ》くなって、妹の手を払った。貴実は空になった皿や茶碗《ちやわん》を重ねて、炬燵から立ちあがった。 「もう、いつまでも恭子さんのことでくよくよしてからに。まるで萎《しぼ》んだ風船みたいやで」  貴実は焦《じ》れたようにいうと、台所に歩いていった。 「早いとこ、新しいお嫁さんでも見つけたにどうで。お兄ちゃんと結婚してもええゆう物好きな女の人、もう一人くらい現れるやろう」  水を流す音とともに、そんな言葉が聞こえた。私はぱんと畳に手を突いて怒鳴った。 「俺《おれ》のことに口出しすなっ」  貴実は、おお怖わ、といって肩をすくめた。隣の部屋で遊んでいた子供と祖母がこちらを見ていた。  私は起きあがると、部屋の隅に放りだしていたダウンコートを拾い、縁側から外に出た。  納屋の前では、母が干し柿を新聞紙に包んでいた。父は雪に覆われた屋敷畑で霜除けの藁《わら》を大根の葉に載せている。私は両親の目を逃れて、そっと庭を横切り、家の前の道を下りはじめた。  枯れ葉に覆われ、茶色に変わった山の上にかぶさる空は、今日も鼠色《ねずみいろ》だ。凍《い》てつくほどの寒さが村を包んでいる。私はポケットに手を突っこんで、ゆっくりと歩いていく。  あのまま妹と顔を突きあわせていたら、大喧嘩《おおげんか》になっていたかもしれない、恭子が死んでまだ半年なのに、再婚だなんてよくいうものだ。恭子のことは早く忘れろと勧める母といい、なんと無神経だろう。  母も貴実も、恭子のことを気に入っていたのではなかったか。立場上は義姉にあたるとはいえ、自分より二歳年下の恭子のことを、貴実は実の妹のようだといって、あちこち連れまわっていた。母に至っては、ほんとに可愛《かわい》らしい、いい嫁さんを見つけてくれたと手放しで褒めていたではないか。なのに死んだとたんに、さっさと忘れろと迫ってくる。  母や貴実を煙たがっていたのは、恭子のほうだった。顔を合わせば一応は愛想よく接していたが、正月や盆休みに実家に戻る話が出るたびに行き渋った。  ——あの村は好きよ。また行ってみたいわ。でも、お義母さんや貴実さんに顔を合わすたびに、赤ちゃんはまだかまだかと聞かれるから厭なのよ。  こういって顔をしかめたものだった。  恭子は、私と知り合う前につきあっていた男の子を孕《はら》んで堕《おろ》した経験があった。それが心の傷となって残っていると、結婚前に打ち明けられた。結婚して自分たちの子が生まれれば傷も癒《い》えるだろうと、私はそのことを軽く捉《とら》えていた。  ところが子供はできなかった。孕みすらしなかった。私は口では、子供は天の授かりものさ、といってはいたが、内心は不愉快だった。かつて妊娠したくらいだから、恭子には受胎能力があるはずだ。もしかしたら私に問題があるのではないかという疑いが、無言の圧力となってのしかかってきた。私は焦り、いつか夫婦の交わりは、子供を作るためのものに変わっていった。そう決めていたわけではなかったが、恭子の排卵日が来ると、私たちは必ず交わった。私の陰茎がかろうじて硬くなるや、恭子のほとんど濡《ぬ》れてない膣《ちつ》になんとか差しこむ。包皮と膣がきしんで痛んでも、とにかく射精までもっていった。そこまで努力したのに、翌月、月経は新聞の集金人のように規則的に訪れた。そのたびに恭子は落胆し、私は裏切られた気分を味わった。やがて恭子は交わりに積極的でなくなり、手の甲を人差し指で二度|撫《な》でる仕草は、私からばかりになった。  もしかしたら、私たちの間に挟まっていった薄紙は、私たちの陰茎と膣のきしみ合いが生んだものだったかもしれない。生み出された薄紙は、お互いの心がすれ違うたびに二人の間に挟みこまれ、隔たりとなっていった。  私はやりきれない気分で息を吐いた。昼間だというのに息が微《かす》かに白くなる。太陽の日射しのひとかけらもない陰鬱《いんうつ》な光景にますます暗い気分になりながら、行く手の曲がり角にある田圃《たんぼ》に目を遣ってどきりとした。  稲の切り株だけが残る田圃の片隅で、もこもこしたものが動いていた。薄汚れた白い犬が、茶色の犬と番《つが》っているのだ。茶色の犬が白い犬に腰を押しつけて尻を前後に揺すっている。尻尾《しつぽ》がぱたぱたと揺れ、白い雌犬はじっとされるがままになっている。  私はとっさに目を背け、また視線を戻した。  二匹の犬は、私に見せつけるように交尾を続けている。腰を雌犬に何度も押しつけている雄犬が、ついとこちらを向いた。雄犬の顔が篤子の顔と重なった。寄り気味の目頭に、魚が泳いでいるような口許。その口許から小さな赤い舌がちろりと出てひっこんだ。雄犬が鼻の頭を舌で舐《な》めたのか、幻覚だったのかわからなかった。ただその瞬間、私の陰茎の血がどくんと波打った。股間《こかん》が熱くなってくる。  篤子と番いたい、と思った。それはどうしようもなく激しい欲望となり、私は坂道を早足で降りはじめた。  この二日間、芋壺での出来事は何だったのか、篤子はどういうつもりであんなことをしたのか、私は考え続けていた。しかし実は、考えることで、もう一度篤子と交わりたいという願望をごまかしていただけだった。再び芋壺に入り、あの暗闇《くらやみ》で篤子の愛撫《あいぶ》を受けたい。尻から伸びる誰のものともつかない手で、陰茎を揉《も》みしだかれたい。自分の欲望を頭の中で言葉にしたとたん、私の股間は痛いほど硬くなった。  坂道は県道にぶつかって終わった。道を横切り、葛橋に続く小道に入る。目の前に、葛橋が待ちかまえていた。  灰色がかった蔓《つる》で作られた橋は、谷川にひっそりと架かっている。風のない日だ。丸太を組んで作った橋の口の四角い木枠が、篤子の肉体への戸口のように見えた。  前回、途中で立ち往生したというのに、吊《つ》り橋を渡ることに対する怯《おび》えは頭に浮かびもしなかった。私はただ篤子と番いたいという欲望に引きずられ、橋を渡っていった。  ぎっぎっぎっ。葛橋がきしんでいる。遥《はる》か下では、糸無川が激しい音をたてて流れている。それはどこか遠くの出来事のようだった。私は川の音も橋のきしみも揺れも聞いてなかった。飛ぶような速さで橋を渡りきり、藤の川部落に通じる石段を駆けあがった。篤子の家に分かれる小道に逸《そ》れて、隠居屋の前に出る。トタンに葺《ふ》き替えられた小屋の入口に立って、声もかけずに板戸を引いた。がたっと板戸が鳴って、何かに突っかえた。私は苛立って、さらに強く板戸を引いた。激しい音がしただけでやはり動かない。 「篤子やったら、おりませんぞえ」  背後から声がかかって、私の背筋が棒のようになった。振り返ると、先日見かけた篤子の嫂《あによめ》が怪訝《けげん》な顔をして母屋の前に立っていた。もんぺに長靴、手には水に濡れた白菜を持っている。  陰茎は一瞬にして萎《な》え、私は全身から力が抜けていくのを感じた。嫂は私の顔を認めて、こちらに数歩近づいてきた。 「なんぞ用やったら、伝言しちょきましょうか。今日は高知まで行ったもんやき、夕方にならんと帰らんと思うけんど」 「いや、ええです」と私はようやく返事した。そして石段に戻る小道のほうに引き返しながら、とっさに「篤子さんの味噌を土産にしようと思うて来ただけやけ」と言い繕った。 「篤子の味噌やったら、農協の青空市場に行ったらええですわ。市場は毎日やりよりますきに」  女は気さくに答えた。私は、そうしますわ、といって、それ以上、会話が続かないように小道に飛びこんだ。  私は気だるい足どりで石段を降りていった。全身に漲《みなぎ》っていた欲望が消えてしまうと、元の萎んだ風船となっていた。妻の死から立ち直れずにふらふらしている男。  ごおごおごおおっ。水音が耳を打ち、はっとしたのは、葛橋の真ん中まで来た時だった。私は足許《あしもと》に目を落とした。  橋に敷いた横木の間から激しい水の流れを見たとたん、足がすくんだ。ぎいいっという蔓のきしみが神経をひっかく。背中に汗が噴きだした。  私は唾《つば》を呑《の》みこみ、一歩、前に進もうとした。膝《ひざ》が震えて、足が出ない。あたりを見回して、そこが恭子が立ち往生したあたりだと気がついた。  二日前、葛橋を渡った時も、やはりここで足がすくんだ。恭子の魂がここのあたりに漂っていて、私を引き留めるのではないか。そう思うとますます歩けなくなった。  私は静まり返った渓谷を見回した。永遠に芽吹く時はないかのような岸辺を覆う枯れ木。人気のない川原。何もかも生きることを止《や》めたような冬の光景が私を包んでいた。 「ぼやっとしちょったらいかん」  前方から張りのある声が飛んできた。  驚いて顔を上げると、葛橋の袂《たもと》に章造が立っている。腰に小刀を差して地下足袋《じかたび》を履き、私を見つめていた。 「葛橋を渡る時はの、気持ちをしゃんとさせちょかんと危ないで」  私は頷《うなず》くと、足を前に出した。膝がまだ少し震える。しかし章造の前で立ち往生するのは、男として恥ずかしかった。弱虫、竜介、竜の字が泣くぞ。今にも章造がそんな囃《はや》し言葉を投げかけてくるような気がした。自尊心が、恐怖心に打ち勝った。私はじりじりと橋を渡り、汗びっしょりになって、なんとか岸に戻り着いた。  章造はいなくなっていた。おや、と思ってきょろきょろすると、川岸の杉に結びつけた橋を支えている蔓を思案顔で引っ張っている。強さを確かめているようだ。そのまま家に帰ろうかと思ったが、声もかけずに立ち去ることもできずに、私は近づいていった。 「章造さんのいう通りじゃ。慣れん者が葛橋を渡るもんじゃないのお」  私は照れ隠しにこういった。章造は微かに頷いた。 「コジキを読んだことあるかえ、竜ちゃん」  それが『古事記』のこととわかるまで少し時間がかかった。私は、なぜ章造が突然そんなことをいいだしたかわからないまま、因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》の話しか知らないと答えた。章造は軍手を嵌《は》めた手で、葛の結び目をしきりに触りながらいった。 「わしは国民学校の先生から習うた。その中に、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》ゆう神様が、死んだ奥さんの神様を探して、黄泉《よみ》の国に行く話があった」  死んだ奥さん、という言葉が心に棘《とげ》のように刺さるのを感じながら、私は応じた。 「その話やったら聞いたことがある。暗闇の中で火をつけて、奥さんを見たら、あんまし醜うなっちょったんで、びっくりして逃げだした話やろう」 「そうじゃ、そうじゃ。ほいで逃げる時、伊邪那岐命がどうしたか知っちゅうか」  私は知らないと答えた。死んだ妻を追いかけた男の伝説なぞ、今の私にとっては最も聞きたくない話題だ。苛立《いらだ》ちを覚えたが、章造はのったりした口調を変えずに続けた。 「奥さんの神様は、体中|蛆《うじ》がたかり、膿《うみ》が流れ、腐りはてた自分の姿を見られたんじゃ。怒りくるって、黄泉醜女とかいう鬼みたいな女らぁを遣って、伊邪那岐命を追いかけさせた。伊邪那岐命は必死こいて逃げたけんど、黄泉の国の女らの足は速い。すぐに追いつかれそうになった。その時、三つのものを順々に後ろに放り投げて、結局は助かったんじゃけどの、真っ先に投げつけたもんが葛《かずら》やったがよ」 「葛やと」  私は聞き返した。 「そうよ。先生がその時、説明してくれたことを、わしはよう覚えちゅう。大昔にゃあ、男でも葛を髪飾りにしちょったんやと。伊邪那岐命は、その葛を髪から外して、黄泉醜女らに放ったがよ。ほいたらその葛はみるみる間に根を生やし、蔓を広げ、どっさり葡萄《ぶどう》の実をつけたという。黄泉醜女らがその葡萄を奪いおうて食べゆう間に、伊邪那岐命はひとまず逃げおおせたと」  章造は、葛を幾重にも巻きつかせた杉の木の幹に手を押しあてて、後方に架かる葛橋を眺めた。 「この話は、こんまい時から妙に頭にこびりついちょってのお。わしは時々、思うたもんじゃ。葡萄を喰ろうた黄泉醜女らは、種を黄泉の地面に吐き散らした。その葛は、この世のものじゃ。死体で肥えた黄泉の国の土の中で芽を吹いた葛は、どんどんと蔓を伸ばしていって、この世まで届かせることができる。ほんやき葛で作った橋は、黄泉の国に通じちゅう。死んだ者は、黄泉の国から葛橋を伝ってこの世に戻って来るんじゃないかとのお」  一粒万倍。黄泉醜女たちの吐きだした種は、万倍の葛を生む。それがまた万倍となり、黄泉の国とこの世とを繋《つな》ぐ無数の橋となっていく。その橋を伝って、死者たちがやってくるのだ。生きている者にもう一度、出会うために……。  私は葛橋を振り返った。  なぜ私は恭子が立ち往生したところで、足がすくむのか。 「橋を渡るがが怖うなったろう、竜ちゃん」  章造はいかつい顔で私を見つめて、くにゃりと唇を曲げた。それは私を怖がらせようと冗談をいっただけだというふうにも受け取れた。私は、章造が本気で黄泉の国と葛橋を結びつけていると考えることより、冗談と見なすほうを選んだ。 「子供じゃあるまいし、そんな話でびびるもんかえ」  章造は顎《あご》を反らせて、からからと笑った。私はその笑いに押しだされるようにして、章造から離れていった。     五 「おいしい鯖《さば》の姿寿司はどうかね」 「大根はいらんかね。安うしちょくで」  テントの下で、エプロンにジャンパーをはおった女たちが白い息を吐きながら声を張りあげている。その前の台には、野菜や寿司、漬け物や餅菓子など、自宅で作った食品が置かれている。週に二回、私の住む村から車で十分ほどのところにあるこの付近の中心、藪原の農協前の広場で開かれる市場だった。近隣の町からも人々が集まってきて、けっこう賑《にぎ》わっている。  私は、知人と立ち話をはじめた母と別れて、人混みの中を歩いていた。この市に母と一緒に出てきたのは、退屈していたからだけではなく、篤子が味噌《みそ》を売っているところを見てみたい気持ちが働いたこともあった。  二度目に篤子の家を訪ねていってから三日過ぎていた。私は兄の家に遊びにいったり、高知市まで出ていって高校の同窓生のやっている酒場に顔を出したりして、時を潰《つぶ》していた。心の底では、私の訪問を嫂から聞いた篤子が連絡してくるのではないかと期待していたが、音沙汰《おとさた》はなかった。篤子にもう一度会いたいという気持ちが湧《わ》いてきて、何度か葛橋のほうに足を向けてみるのだが、いつも途中で気持ちが萎《な》えてしまい、せめて偶然に会ったりしないかと、バス停の前をうろついたり、村一軒の雑貨屋に行って吸いもしない煙草や埃《ほこり》の積もった駄菓子を買ったりしたが、かつての幼なじみと顔を合わせるのが関の山だった。私の心は迷い犬のようだった。餌《えさ》を求めて篤子の家の回りをぐるぐる巡っている。そんな自分がほとほと厭《いや》になっていた。  焚《た》き火《び》の回りで暖を取っている男たち。買物の包みを軽トラックの荷台に乗せている農家の女。段ボールに買物を詰めこんで、子供を従えてのし歩く主婦。売り手も客も顔なじみがほとんどで、どのテントの下でも雀の群れのような喋《しやべ》り声が弾《はじ》けている。テントからテントに、売り子の顔を確かめながら私は歩いていく。  売り台には、緑の葉を突きだした泥だらけの大根や里芋、白菜などが並んでいる。女たちが自分の畑で穫《と》れた野菜を自慢している。ここでは人々は目に見えるものを取引している。私の仕事とはちがう。証券取引の仕事は紙の上と会話だけで成り立つ。金自体は見えないくせに、何百万何千万という単位の金が流れていく。だからだろうか、一旦《いつたん》、仕事から自分を切り離して、故郷に戻ってくると、あの仕事はまるで想像の上に成り立っていたように現実味を失っていた。最近は新聞の経済欄に目を通すことすら忘れている。  会場をほぼ一回りした時、農協の建物の前のテントで篤子を見つけた。売り台に味噌を入れたビニールパックを置いて、にこにこして通り過ぎる客を眺めている。  今日の篤子はおしゃれをしていた。水色のエプロンに萌葱《もえぎ》色のセーター、白っぽいスラックスを穿《は》いて、煉瓦《れんが》色のジャンパーを着ている。薄化粧をして、肩までの黒髪を後ろにまとめていた。  爪先《つまさき》から喉元《のどもと》まで、どくんと血が逆流した。篤子に声をかけようかどうしようかと迷っていると、農協の玄関に現れた男が彼女に近づいていった。 「篤っちゃん、ここやったかえ」 「ありゃあ、加納君」  加納という男の太い声と篤子のはしゃいだ返事は、私の許まで聞こえてきた。パーマをかけて、農協のマーク入りのジャンパーを着た男は馴《な》れ馴《な》れしく篤子の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「今度の土曜日、どうや、一緒に行かんか」 「そうやねぇ……」  篤子は加納に思案するように笑いかける。どこか媚《こ》びを売っている感じだ。 「あんまし遅うならんがやったら、ええけど」 「ならんならん」 「そんなことゆうたち、加納君らと一緒にカラオケに行って、早う帰れた例《ためし》がないもんねぇ」 「そりゃあ俺《おれ》のせいじゃないで。マイク持ったら離さんがは、おまんじゃいか」  篤子が噴きだして、加納の肩を叩《たた》いた。その仕草にべたつくような感じを覚えて、私は不快になった。 「ほいたら、いっつもの店で俺ら歌いゆうき、気が向いたら来いや」  篤子は笑いを浮かべて頷いた。加納が立ち去ると、篤子は売り台に向き直った。私はその場から立ち去ろうとした。しかし、まるで磁石で引き寄せられたように、私は篤子から目を離すことができず、篤子は人混みの中の私に気がついた。その目に浮かんだものは、当惑と嫌悪だった。次の瞬間、篤子はさっと私から目を逸《そ》らせた。  私の喉に熱い塊がせり上がってきた。私のことを単に無視するならまだわかる。この前のことが気恥ずかしいのだろうと思える。しかし、篤子の目に閃《ひらめ》いた嫌悪は何だ。憎しみは何だ。私が何をしたというのだ。手を出してきたのは、篤子ではないか。その憤りは、ここ数日の篤子に対するためらいを振り棄てさせるに充分だった。私はつかつかと篤子に近づいていった。 「やあ」  私は篤子に声をかけた。篤子は、私の顔を渋々見返して、「こんにちは」と他人行儀に挨拶《あいさつ》した。 「この前はお茶をご馳走さん」  私は、芋壺《いもつぼ》でのことも含めていった。篤子はそれを悟ったのだろう、頬《ほお》が赤くなった。そして赤くなったことに怒った顔をした。  私たちはしばらく黙って向き合っていた。篤子はいきなり目の前のビニールパックを突きだした。 「これ一パック四百円。どうかえ、買うてくれんかえ。東京へのおみやげにええやろう」 それは味噌の入ったパックだった。あの芋壺で作った味噌だ。それを篤子は自分の怒りを押しつけるように、私のダウンコートの上から腹につきつけていた。  私はポケットから五百円玉を出して、篤子に払った。払う時、私は彼女の掌を人差し指で二度さっと撫《な》でた。篤子は不快な表情になって手を引っこめると、五百円玉を売り台の上にあった料金箱に投げいれ、お釣りになる百円玉をつまみあげた。それを私の前にかざしてから、掌に握りしめた。 「この前のお茶代にもろうちょく」  そして、私の目を射るような鋭さで見てつけ加えた。 「これで貸し借りなし」  篤子はぴりぴりした声でいうと、私の肩越しに頓狂《とんきよう》な声を上げた。 「多美ちゃん、多美ちゃん。風邪、どんな具合かえ」  私の横に、もこもことした綿入りコートを着た女が立った。そして、マスクをずらして、「それがねえ、治ったと思うたら、また咳《せき》が出てねえ」と、風邪をひいているとは思えない元気良さで話しはじめた。篤子はもう私を見ようともしないで、生姜湯《しようがゆ》がいいだの大根湯がいいだのと答えている。私は味噌のパックを手にして、テントから離れた。  母はすでに駐車場の車の前で私を待っていた。手に買物のビニール袋を三、四個持っている。私は車の鍵《かぎ》を開けて、運転席に座った。助手席に腰を据えた母は、フロントガラスの前に置いた味噌を見て、「篤子さんの味噌かえ」といった。それでパックを見て、はじめて私はそこに『篤っちゃん味噌』という手書き文字をコピーしたラベルが貼《は》られていることに気がついた。 「篤子さんも商売上手やきねぇ」  母は首のマフラーを緩めながらいった。私は車のエンジンをかけて「どういうことじゃ」と聞いた。 「駅の売店やら町営物産センターで、自分の作った味噌を売ってもらいたいもんじゃき、そっちの関係の人らと呑みに行ったり、カラオケに一緒に行ったり、まあ、よう運動しゆうみたいで」  私は先の加納という男との会話を思い出した。あれは篤子の営業活動だったのだろうか。 「篤子さんも食うていかんといかんがじゃろ」  混雑している農協前の道から抜けだして、私はいった。母は助手席で、はっ、と息を吐いた。その態度からは、篤子に対する反感が滲《にじ》みでていた。  私はふと母に、死んだ恭子のことをほんとうに好きだったのかと聞いてみたい衝動を覚えた。しかし母の細かな皺《しわ》に覆われた頬や口許を横目で捉えて、やめた。そりゃあ恭子さんのことは好きやったで、けんど、死んだ人は死んだ人じゃ。そんな答えが返ってきそうだった。  糸無川沿いに県道を村に向かって走る。藪原の町並みが過ぎて、周囲に山の斜面が迫ってくるようになった。くねくねと曲がった山道を走っていると、母がフロントガラスに身を乗りだして「章造さんや」と呟いた。母の指さす方向を見ると、道路の左肩に聳《そび》える山の斜面を籠を背負って登る男の姿があった。その先は、うっすらと雪をかぶった峰に続いている。 「橋をかけ直すための葛を集めゆうがやろう」  私の言葉に母は頷《うなず》いた。車は次の曲がり角を過ぎ、章造の姿は枯れ山の向こうに消えてしまっていた。 「独り者じゃき他に愉《たの》しみもないかせじゃろうねぇ。去年の秋から、ああしてせっせと山を歩いてまわりゆう。あんたも気をつけんと、章造さんみたいな寂しい人生を送ることになるで」 「俺と章造さんは関係ないやろう」  私はむっとして言い返した。 「関係あるち。章造さんも、あんたみたいに奥さん亡くしてから、がっくりしてしもうたがやき」 「章造さん、結婚しちょったがか」  私は驚いた。章造は昔から独り者だったと信じこんでいた。 「そうか、あんたまだこんまかったき知らんやろうねぇ」  母は手袋を嵌《は》めた手をさすり合わせた。 「ずっと前、うちの村で集団赤痢が流行《はや》ってねえ。その時、章造さんは奥さんと子供さんをいっぺんに亡くしてしもうたがよ。気の毒なことじゃった。それからは再婚もせんでずっと一人よ。もう三十年ばあ昔のことになるねぇ」  では、章造もまた私と似たような境遇だったのだ。いや、子供まで亡くしたのだから、悲しみは私より深いかもしれなかった。  ——葛で作った橋は、黄泉《よみ》の国に通じちゅう。死んだ者は、黄泉の国から葛橋を伝ってこの世に戻って来るんじゃないか。  あの章造の言葉は冗談ではなく、本心からのものだったのではないか。  私はフロントガラスの彼方《かなた》を見つめながら思った。段々畑が天まで達する山間の村が近づいてきていた。     六  青空を雀の群れが横ぎっていく。山の頂上の葉を落とした木々の枝が、稜線《りようせん》をレース模様のように縁取っている。私は鍬《くわ》を持ったまま背筋を伸ばした。 「どうじゃ、だれたか」  畑の畝《うね》の間から父が声をかけてきた。 「まだまだじゃ」  私は鍬を持ち直すと、ざくっと土に突きたてた。毛糸の帽子の下で、父の目が笑っていた。 「あんまし張りきりすぎると腰を痛めるぞ」 「わかっちゅう」  私は鍬を振りつづけた。  今朝、家の屋敷畑で大根を抜いていた父に手伝いを申し出た。大根を抜かせてもらいたかったのに、抜いた後の畑の畝を整えるように命じられた。あてが外れて気乗りしないままはじめたのだが、鍬の刃が力強く土に喰《く》いこむようになると嬉《うれ》しくなった。体を動かすことが気持ちよかった。  調子を取って鍬を振り、土を掘りおこす。全身が暖かくなり、心が落ち着いてくる。土の匂いや、太陽の光の強さを肌で感じた。鈍っていた筋肉が呻《うめ》いているが、それすらも楽しかった。 「竜介ーっ、竜介ーっ」  家の縁側から祖母の声が響いた。 「なんじゃーっ」  私は鍬を動かす手を止めて、怒鳴り返した。 「電話でえ」と返事があった。誰だろう、と訝《いぶか》りながら、私は鍬を地面に置いて、家へと走った。  長靴を脱いで、縁側から茶の間に入る。電話は炬燵《こたつ》の横の茶箪笥《ちやだんす》の上にある。祖母は私に受話器を渡すと、また暖かな炬燵にもぐりこんだ。  私は受話器を耳にあてると、息を整えて、もしもし、と答えた。 「三宮君かね」  きびきびした男の声が聞こえた。課長だった。全身が水を浴びたように緊張した。 「はい、そうです」  なぜ課長が私の実家の電話番号を知っているのだ。総務課で確かめたのだろうか。そこまでして、何を私に伝えたいのか。緊急事態でも発生したのか。頭の中をさまざまな想いが駆けめぐった。 「あの……何か……」 「何か、だと」  課長の声が険しくなった。受話器の背後の人々のざわめきや電話の鳴る音が私を不安にした。 「今日は何曜日だと思っているんだ。君は確か今日から出社する予定だったろうが」  私はぎくりとした。今日は金曜日だ。それはわかっていた。朝のテレビの天気予報でいっていた。その時、ぼんやりと思ったのだ。会社は月曜日から出ていけばいいのだ。まだ三日あると。いったい、いつからそんなふうに休みの時期をずらしてしまったのかわからなかった。五日前までは確かに金曜日出社だと思っていた。飛行機の予約をしなくてはと考えたから。しかし、それがいつか週明けの出社だと勝手に思いこむようになっていた。  私は息を吸った。頭から血が引いていく。 「すみません」  声が掠《かす》れた。 「ちょっと……こちらで急用ができて……親類の者が倒れたものですから。連絡もせずに……すみません」  さっきまでの伸びやかな気分は吹きとんでしまい、瞬く間に自分が元の仕事の流れに引き戻されてしまったのを感じた。反射的に言い訳を用意して、失敗を取り繕う。そんな自分への嫌悪感を押し殺して、私はいった。 「これからすぐに戻ります。明日には出社します」 「明日は土曜日だ。会社は休みだ」  課長の憮然《ぶぜん》とした声が返ってきた。私は舌を噛《か》みきりたくなった。 「出社は月曜日でいい。待ってるよ。ちょっと話したいこともあるし」  話したいこととは何だろう。課長の言葉が引っかかった。何でしょうか、と問い質《ただ》そうかと考えている間に、課長は「それじゃ」といって電話を切ってしまった。  受話器を置いてから、私はしばし呆然《ぼうぜん》としていた。  見事に時間の感覚を忘れていた。それほど仕事から、恭子の匂いの残る生活から逃げだしたがっていたのだ。だが、現実からいつまでも逃げていることはできない。  私は電話帳をめくって、高知空港を呼びだした。週末の東京行きの飛行機の空席状況を聞くと、土曜日の朝一番の便だけ数席残っていた。それを予約すると、私は炬燵に入って縫い物をしていた祖母にいった。 「俺、明日の朝、東京に戻るき」 「明日戻るかえ」  祖母は垂れた目をしょぼしょぼさせていった。 「そらまた急に……。寂しゅうなるの」  私がいなくなれば、この家には祖母と両親だけとなる。老いた三人が再び肩を寄せあうようにして暮らすことになる。私は祖母の呟《つぶや》きから逃れるように、腰を上げた。  縁側から庭に降りて、また畑に戻っていった。鍬を手にして、再び畝を整えはじめる。  ざくっ、ざくっ。鍬の刃が土に喰いこみ、大根を抜いた穴が元通りになっていく。父はここに萵苣《ちさ》を植えるのだといっていた。  一粒万倍。  その言葉が呪文《じゆもん》のように私から離れない。  顧客の顔色を伺わなくてもいい、ただ、土を相手に黙々と働いているだけでいい生活。そして、土の中から確かなるものが育ち、収穫となる。  故郷に戻ってこようか。  そんな気持ちが湧《わ》いた。  人生を変えるのだ。東京の新築の家を売り払い、それでローンの残りを返済して、この村に戻ってくる。父を手伝って、農業をはじめよう。故郷で新しい生活をはじめるのだ。恭子のことを忘れ、再婚だってするかもしれない。そこまで思った時、篤子の顔が浮かんだ。  篤子は、昨日、これで貸し借りなし、といった。二人の関わりも、これで終わりだと告げていた。私が東京に戻る身だからこそ、ああいったのではないか。篤子だって私に執着があったが、東京と高知では離れすぎている。あのつっけんどんな態度は、これ以上、深入りしないための芝居だったかもしれない。一度の交わりで篤子が私に興味を失ったと考えるのは、あまりにも屈辱的だった。私はこの思いつきにしがみついた。  篤子に会いにいこう。東京暮らしをやめて高知に戻ってくるつもりがあると告げれば、篤子は態度を変えるのではないか。その言葉を待っていたのだといって、私を芋壺《いもつぼ》に誘うかもしれない。この可能性を考えたとたん、いても立ってもいられなくなった。  東京に戻る前にあと一度だけ、あの激しい欲情に身を任せたい。体の隅々から炎が噴きでるような篤子との交わりを思い出すや、私は鍬を放りだし、家から飛びだした。  あと一度、篤子と交わることができたら、人生を変えられる。萎《しな》びた風船のような状態から抜けだせる。  再度の篤子との交わりは、私の中で次の世界への脱出口という意味を含みはじめていた。篤子をものにできたなら、もう誰も私を、弱虫竜介、竜の字が泣くぞ、と嘲《あざけ》ることはない。私は人生をつかみ直すのだ。新たな出発をするのだ。胸の中でこんな言葉を口走りながら、私は坂道を駆けていった。  冬の冴《さ》え冴《ざ》えとした太陽を、茶畑の葉が照り返している。赤い前垂れをつけた地蔵の横を通りすぎ、曲がりくねる坂を降りていく。谷間を縫う糸無川の上に、葛橋が揺れている。それは黄泉の国に通じる橋ではない。私を未来へと繋《つな》ぐ橋だ。恐怖はなかった。私は揺れる吊《つ》り橋に足を踏みだした。恭子の立ち止まった地点を過ぎ、楽々と橋を渡り終えた。  これだけのことだったのだ。怖がらなければ道は通じる。死んだ妻との間に挟まっていった薄紙のことなぞ、考えるのはよそう。私は生きているし、恭子は死んだ。この次は、新しい女との間に薄紙が挟みこまれないように気をつければいいだけだ。  すべては簡単なことに思えた。  私は石段を一段飛ばしで駆けあがり、岩城家の敷地に入っていった。篤子の嫂《あによめ》が母屋の庭先で洗濯物を干している。私はその目を逃れるため、植えこみに隠れるようにして隠居屋の前に行った。  入口の板戸は閉まっていた。落胆を押さえて試しに戸を引いてみると、横に動いた。鍵《かぎ》はかかってない。私は土間に滑りこんだ。  台所の電気はついていたが、篤子の姿はなかった。板の間の隅で石油ストーブが燃えている。どこかにいるはずだと、きょろきょろしていると、芋壺の入口の板覆いが取り外されていることに気がついた。私は土間に穿《うが》たれた穴に近づいていった。  梯子《はしご》を差しかけた芋壺の底を弱々しい光が照らしている。篤子は下で味噌《みそ》でも出しているのだろう。声をかけようかと思ったが、いきなり降りていって抱きつくという考えが閃《ひらめ》いた。この前の仕返しだ。私のほうが不意を襲って、篤子を燃えあがらせてやるのだ。  その考えは、欲情をますますかきたてた。私は足音を忍ばせて梯子段を降りていった。  芋壺の底に着くと、奥の暗がりに明かりがぼうと灯っている。味噌樽《だる》の向こう、芋の山のあるほうだ。人の動く気配がする。光を頼りに味噌樽の間を抜けて、芋山のほうに進んでいった私は、行く手から流れてくる尋常でない息づかいに足を止めた。  闇を透かし見ると、芋の山で男と女が横たわっている。懐中電灯の弱い光では黒い影しか見えないが、その押しだすような動きで交わっているのはわかった。  二人の荒い息づかいがむっとした地下の空気を通して伝わってくる。上半身は服を着たままだが、下のものは脱いでいる。赤味を帯びた懐中電灯の光に絡み合う脚だけがやけになまめかしい。まるで男と女の裸の下半身だけがそこに存在しているようだ。目が暗闇《くらやみ》に慣れてくると、上になっている男の顔がぼんやりと見えた。章造だった。乱暴といえるほど力をこめて、下になっている女に腰を突きだしている。女は熱い息を洩らして、顔を左右に振っている。男が体を反らせた瞬間、篤子の顔が浮かびあがった。魚がくねるような口許が歓びに歪《ゆが》んでいた。  胸の底から熱いものがこみあげてきて、足が震えた。  こういうことだったのか。  章造が儲《もう》け抜きにして葛橋の掛け替えを買ってでた理由。黄泉の国に通じているなどといって、葛橋を渡ろうとする私を怖がらせた理由。そして篤子は、篤子自身はただの淫乱《いんらん》な女だったのだ。  ここに来るまでの間に膨らみきっていた私の希望は、あっけなく潰《つい》えてしまった。篤子を脱出口にして飛びだそうと願っていた未来がふっと消えてしまった。  最初から思いこみの中で生まれた希望だった。篤子の正体がわかっただけで、何も無くしたわけではないのに、私は愕然《がくぜん》とした。自分でも、篤子と交わりたかったのか、篤子の愛情を求めていたのか、よくわからなかった。金勘定に何年も費やしてきた男にしては、あまりにも幼稚な心の罠《わな》にひっかかったものだ。苦々しさを噛みしめながら、私は二人に背を向けて、その場から立ち去ろうとした。梯子段の上から地上の光が差してきているはずだと思ってあたりを見回し、戸惑った。出口の光は見えなかった。芋壺を照らしているのは、背後の芋山に置かれた懐中電灯の光だけだ。  誰か地上に通じる蓋を閉めたのだろうか。 「静江、静江」  章造の呻《うめ》くような声が聞こえたのはその時だった。  静江とは誰だ。私は訝《いぶか》りながら、芋山のほうを振り返り、自分の目を疑った。  章造が組み敷いている女は、篤子とは別人だった。鼻筋の通った面長の顔。章造が腰を突きいれるたびに、その喉《のど》が弓なりになり、青ざめた肌が燐光《りんこう》のような色を放っていた。  篤子はどこにいったのだ。周囲を見ても、四方に広がる闇に人の気配はない。また章造のほうに目を戻すと、懐中電灯の光はどこにいったのか、真っ暗だ。  変だった。さっきまで聞こえていた男女の荒い息づかいも消えていた。虫一匹の気配もなく、あたりはしいんとしていた。 「章造さん」  恐る恐る呼んでみたが、返事はない。深い闇と静寂が私を押し包んでいる。篤子の名も呼んだが、やはり返事はない。静けさがねっとりした泥のように押しよせてくると同時に、湿った土の臭《にお》いが強くなった。私は手探りで歩きだした。しょせん岩城家の床下に掘られている芋壺だ。闇雲に進んでいっても、出口にぶつかるのは時間の問題と思った。  案の定、すぐにころころした丸いものの山にぶつかった。芋の山にちがいない。これを越えていけば、南の縁側の下に出るはずだ。  私は四つん這《ば》いになって芋山を這い進みだした。掌《てのひら》にぶつかるものは、芋ではなく角の取れた丸い石だった。時々、私の歩みで崩れて、からんからんと輯がっていく。まるで深い谷底に落ちていくような音だ。下方から、冷たい風が吹きあげてきていた。  いったい、ここはどこなのだ。  私はそう思い、思った瞬間、その疑問を押し潰《つぶ》した。  ここは岩城家の床下だ。それ以外の場所であるはずはないではないか。きっと誰かが芋の上に石を置いたのだ。この石の山を越えれば、出口があるはずだ。篤子の兄が芋を入れた南の縁側の床下に出るはずだ。  呪文《じゆもん》のようにその考えを繰り返しながら四つん這いで進んでいた時、睾丸《こうがん》に何かが触れた。私の心臓はひっくり返りそうになった。  人の指だった。細い指は、睾丸を優しく包みこみ、さらに陰茎に伸びてきた。私の尻にさらさらした髪の毛のようなものが触れている。  篤子だ。  安堵《あんど》と怒りが同時に噴きあがってきた。 「人をおちょくるのも、ええかげんにしいやっ」  後ろに首を捻《ひね》って怒鳴ったとたん、女の指がぐっと陰茎を握りしめた。  ——怖がってるの、竜介さん。  恭子の声だった。私の全身が強《こわ》ばり、喉が干上がった。女の手は、私の陰茎をゆっくりとしごきだした。  ——どう、気持ちいいでしょ。  まぎれもない、恭子の声だ。しかし妻は死んだのだ。そんなはずはない。篤子が恭子の口真似をしているのか。だが、なぜ篤子が恭子の口調を知っているのだ。  ——こうしたのは、いつも、あなたのほうだった。その気になればいつでも股の間に手を伸ばしてきて、私が濡れてようがなかろうがおかまいなしに交わろうとした。すべて、あなた自身のため。子種があるという証《あか》しを得るためにね。  やはり、この女は恭子なのだ。半年前、トラックに轢《ひ》かれて死んだはずの妻。私の手足は凍りついて動けない。しかし陰茎だけが、どういうことか硬くなっていく。石のように冷たく硬くなっていく。  恭子が私の背後から覆いかぶさってきた。冷たく、ぶよりとしたものが尻《しり》から背中に貼《は》りついた。生きている時の柔らかな恭子の肉体ではない。その感触は、腐って融けていく肉を連想させた。同じようにぐにゃぐにゃした指で、恭子は激しく陰茎を揉《も》みつづける。  ——もっと、もっと、硬くなるのよ。硬く、熱く。一粒万倍。あなたが硬くならないと、種を蒔《ま》くこともできやしない。種がなければ、土があっても、万倍にもなれやしない。  私の陰茎がはちきれそうだ。私は自分の肩に噛《か》みついた。痛みが全身に走り、なんとか四肢が動きだした。私は獣のように四つん這いのまま逃げだした。靴がどこかに転げていってしまったが、裸足《はだし》のほうが楽だった。私は両手両足で石の山を蹴《け》って駆けていく。だがどんなに早く駆けても、股間《こかん》をまさぐる指の感覚は消えはしない。恭子の手だけがするすると伸びて、どこまでもついてくるようだ。逃げても逃げても、暗闇が続く。そして恭子の指は執拗《しつよう》に私の陰茎をしごきつづける。いつか指から肉の感触は失われた。まるで肉が融けて骨だけとなったかのようだ。骨の指は細い縄のように絡みつき、蠢《うごめ》き、私の陰茎と睾丸を揉みしだく。  快感と恐怖に、私は嗚咽《おえつ》を洩らしていた。私の心は脅《おび》えに縮こまり、私の陰茎は心地よさに立ち続け、ますます硬く太くなってくる。 「助けてくれ、誰か、助けてくれえ」  私は泣きながら怒鳴っていた。背後で恭子が楽しげに笑った。幾本もの細い指がますます狂おしく動き、私の陰茎を弄《もてあそ》んだ。  手足の動きが鈍くなってきた。踵《かかと》に死んだ妻の息がかかった。恭子はすぐそこに迫っていた。私は逃げる気力を失いつつあった。  ほぉほぉほぉ。  闇の彼方《かなた》から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。  ほぉほぉほぉほぉ、ほぉほぉほぉほぉ。  鍬初めの時の男たちが放っていた、神を呼ぶ声だ。力強い声がこだましながら、闇を伝って私のところまでやってくると、股間から死んだ妻の指が退いていった。自由になった私は声のするほうに走りだした。  ほぉほぉほぉほぉ。声はだんだんと大きくなってくる。私はもう四つん這いではなく、立って走っていた。頭にぶつかるものは何もない。足の裏に触れるものは、すでに石ではなく、土だった。湿った柔らかな土。  闇が薄れてきて、行く手に葛橋が見えた。渡り口の四角い木枠が、この悪夢からの出口のように聳《そび》えている。葛橋の先は、灰色の薄闇に消えている。橋の向こう側がどこに続いているのかわからなかったが、考えている間はなかった。  私は橋を渡りだした。ぎっぎっと蔓《つる》がきしむ。足許から激しい水音が湧《わ》きあがる。川の流れる音の中に、小鳥の囀《さえず》りが聞こえた。  小鳥の囀り、という言葉が脳裏に浮かんで、私は瞬《まばた》きした。  眩《まぶ》しい光が目を射た。空には太陽が照りかがやいている。闇は消えていた。私は足を止めた。  橋の下方には、碧《みどり》色を反射して流れる糸無川。向こう岸には、冬枯れした木々に覆われた崖《がけ》があった。崖の少し上には県道の白いガードレールが見える。道の上部は段々畑が連なり、私の家へと続いている。  篤子の家の芋壺から、この葛橋まで、どうやって辿《たど》りついたのだろう。まるで芋壺からここまで抜け穴でも通じているみたいだった。だが、そんなはずはない。第一、抜け穴らしきところから出てきた記憶はない。あの恐怖に満ちた闇の世界から、突然、私は葛橋の上に出てきていた。  いったい何が起きたのだ。立ち眩《くら》みに似た感覚を覚えて額に手をあてた時、がくんと私の足を置いていた角材が動き、橋が五センチほど下に落ちた。 「竜ちゃんっ」  呼び声に顔を上げると、行く手の岸辺に章造が立っていた。隣には篤子もいる。お茶の盆を手にして、盛んに手招きしている。二人は岩城家の芋壺にいたのではなかったか。私は肩越しに背後を振り向いた。岩城家の灰色の瓦が木々の間から覗《のぞ》いている。白昼夢でも見ていたのだろうか。篤子のところに向かう途中、この葛橋の上で夢を見た。しかし、それならば私の体は藤の川部落側に向いているはずだ。どうして私は引き返す方向、県道の方向に進んでいたのだ。何が何だかわからない。私は葛蔓を編んで作った手すりによりかかろうとした。また葛橋が大きく揺れた。 「早う、こっちに渡ってこい。橋が切れそうになっちゅうがやき」  章造が頭上の杉柱を指さした。杉柱に幾重にも巻きつけていた蔓の一本が切れていた。他の蔓も今にも切れそうに伸びきっている。  葛橋が落ちる。やっと事の重大さに気がついて、私は慌てて前に進みだそうとした。しかしなんということか、足がすくんで動かない。全身から脂汗が噴きだした。必死に前に進もうとするのだが、足の裏が橋床にくっついたみたいだ。  ——弱虫竜介、竜の字が泣くぞ。  子供たちの囃《はや》す声が聞こえた。向かいでは、章造と篤子が盛んに手招きして、早く、こっちに来いと叫び続けている。葛橋はじりじりと撓《たわ》みつづける。橋床の角材が蛇腹のように捻《ねじ》れだしている。  こうなれば這ってでも行こうと、かがみこんだ私の目に、自分の足が飛びこんできた。泥だらけの裸足。私はやはり芋壺にいたのだろうか。そんな考えが頭に閃いた瞬間、私の両足に絡みつく茶色がかった蔓の先が見えた。心臓の形をした深緑色の小さな葉をつけた蔓は、橋の角材の後ろからひょろひょろと出てきて、私の両足に一本ずつ巻きついている。  この蔓のせいで動けなかったのだ。むしり取ろうとした時、二本の蔓はするすると私の脹脛《ふくらはぎ》から膝《ひざ》、太股《ふともも》を這いあがってきて、陰茎に達した。そして蔓の先は茶色がかった肌の女の手に変わり、私の陰茎を包みこんだ。  私は悲鳴を上げた。 「早う、早うしろっ、落ちるぞっ」  章造が怒鳴っている。私は顎《あご》を震わせながら、章造と篤子を見た。葛橋の袂《たもと》に立つ二人はとても遠いところにいるようだ。女の手は、私の陰茎を揉みはじめている。助けを呼びたいのに、ぜえぜえという息しか出てこない。すでに私の陰茎は硬くなっていた。  橋を吊っている蔓がまた一本、ちぎれるのが見えた。体が再び大きく沈み、葛橋は傾いた。それでも私は動けない。蔓となった女の手が、私の陰茎を激しく揉みつづける。陰茎はますます硬く、太くなっていく。膨れあがる死の恐怖と恍惚《こうこつ》感にもみくちゃにされ、私は大声を放って射精した。同時に地上と葛橋とを繋ぐ最後の蔓が切れた。私の体は宙に投げだされ、無数の精子をこの世にまき散らしながら水《みず》飛沫《しぶき》を上げる糸無川に落ちていった。